俳句「島熊山の自然」

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 俳句「島熊山の自然」は、隔月発行の当会の会報「雑木林通信」の巻末を飾る岸田興次さんの連載記事です。手書きの絵と、俳句、そしてそれにまつわる随筆が添えられています。

◎長い間ご愛読いただきました「俳句 島熊山の自然」は今号で最終回となります。100回までは続けて頂きたいと願っていたのですが・・・。俳句のみならず絵・エッセイとも毎号楽しませて頂きました。岸田さん本当に有り難うございました。お疲れ様でした。

俳句「島熊山の自然」第八十一回   蛍池 岸田興次

大きな輪小さな輪となり飛蝗一匹
 恒例の西丘小学校の島熊山観察会が昨年の十一月二十一日(月)に行われました。 私は三年一組の三十四名を引率しての案内です。山で自然観察のビンゴ表を配ってから、アベマキのどんぐりの説明に始まり尾根を歩きながらの松の年齢当て、葛の葉ぽんぽん鳴らし遊び、チカラシバの実を手で一気にイガイガ栗にしたりと。最後に来た草原でのバッタの追い込み猟です。虫がいないのでおこなうのは、どちらでも良いとの指示が出ていましたが、観察開の児童参加イベントとして実行してみる事にしました。全員手を広げて、大きな輪から小さな輪へとなりながら追い込んで行きました。皆そろってあんな楽しそうな笑顔を見たのは初めてです。そう!皆そろってが良いのです。
 そうそう、自然観察会と言えば・・・この同じ十一月に実施した、ある小学校の自然観察会です。担任の先生から出来ますか?と懇願されての、たっての依頼でした。四年生三クラス八十三名でのフィールドは服部緑地です。三クラスですので、ハンドマイクをお借りする事にしました。当日、持参されたのはあのD・Jが使う首から掛ける小型マイクです。いやー世の中進んでいます。
 観察会はケヤキを見てすぐ分かる方法、山ヶ池のハスの話、団栗の木の下での団栗君の紙芝居。そして島熊山の児童参加イベントのような行事として「葉っぱスタンプ作り」ここでも皆の笑顔が良かったです。素晴らしい作品も出来ました。
 終わって西広場から送ったあと、緑地の売店の横でやれやれと座り込み、大きなため息。ジュースを飲みながら・・・やまたやれやれと喉が涸れて・・・どっと疲れが出てきました。
           句・エッセイ・絵  岸 田 興 次

俳句「島熊山の自然」第八十回   蛍池 岸田興次

極暑でも 風呂も煮炊きも薪と柴
 七月十日(日)の島熊山の手入れは、豊島高校の東側の奥の御堂筋手前が担当でした。そんな奥に六十年以上前に薪にした跡があるコナラを発見しました。発見・・・というか気にしていなかったが正しいです。それではと、測ってみると、周囲が最大で四m二十cm、地上から、一m十cmで幹が日本に分かれています。樹高は二十m近い堂々としたコナラです。間違いなく地上一m程のところで、薪材様に切っています。
 豊中でも五十年前は、風呂も炊事も薪をくべていました。と言っても、柴や薪を島熊山や刀根山、待兼山、宮山から搬出されるかたは限られておりました。一般には、燃料店で薪何束と言って購入します。そして風呂焚きは、以前にも書いた様に子供の仕事です。新聞紙をクシャクシャにしてから、その上に短く細く切った柴を乗せます。火が回れば、からけし壺からからけしを掛けます。「からけし」は半燃えの薪の破片です。ここまで書いて、あの、からけし壺はどこへ行ったのでしょう?次に、少し太めの薪を斧で割って間を取りながら乗せます。中火に成って来たところで、温まった空気が上へ昇ろうとして上昇気流が発生します。焚き口から煙突への大きな気流の流れです。すると、「ゴーッ」という、気流の音が聞えて来ます。これで、しめたもんです。どんどん薪をくべていきます。煙突の役目ですが、単に煙を逃がす「物具」ではなく、上昇気流をまとめて強く引っ張り上げる「装置」なのです。どれだけ、早くこの「ゴーッ」という音を出させて薪を少なく炊く上げるのかが子供達の腕の見せ所です。
 ところで、四十年前の大阪万博のテーマが「人類の進歩と調和」は、今と成っては淡雪かな?
           句・エッセイ・絵  岸 田 興 次

俳句「島熊山の自然」第七十九回   蛍池 岸田興次

みちおしえ ほんに柔らかい なまえかな
 五月二十日(金)は西丘小学校に3年、4年生の島熊山観察会でした。時間は一時間目を使いました。総勢六名の会員が八時三十分には校内に集合。打ち合わせのあと三年、四年の担当リーダーの先導により、観察場所の島熊山に向かって出発。
 子供たちは虫に興味があります。何故子供は虫が好き?何故子供はそんなに虫が好きなのか?何故子供から大人になれば「虫好き」が殆ど消滅するのか?私にとっては、いまだに謎なのですが・・・。
 コニワハンミョウの幼虫が住んでいる円筒形の穴の説明をしだすと、皆んな一瞬静かになり、そして、我先に穴を探し覗き込みます。不思議がります。全員です。まさに全員「虫好き」です。少し見ていると、子供たちは虫を取らまえて穴に虫を突っ込んだりしはじめていると、少し離れた場所では幼虫が顔をだしたとか言っております。楽しそうです。
 道の舗装もなかった五十年前の豊中では当時、小川沿いの道では牛を繋いでブラッシ掛けをしたり、洗ったりしておりました。牧歌的な風景でした。当然、その周りをハンミョウが跳ねておりました。ハンミョウが面白く良く追っかけました。当時の子供たちはハンミョウなんて呼びません。「道おしえ」とか「道あんない」とか言っておりました。豊中の道にハンミョウが居なくなって久しいです。
 市内粋で舗装が始まった頃、子供たちは近代的になったように見え、どんなに喜んだっ事でしょう。ただ進歩を信じて・・・。
           句・エッセイ・絵  岸 田 興 次

俳句「島熊山の自然」第七十八回   蛍池 岸田興次

くびきりぎすや 千里タワービルと春の空
 三月の竹林整備は病欠しましたので、二月時の取材で書かせてもらいます。二月は二班の竹林作業内で私は根笹刈りをしました。陽だまりの南向き斜面は、根笹にいだかれて暖かく正に春めく感じです。遠くかすみの向こうに新しく出来た五十階建ての子巴タワービルが見られます。と・・・! その根笹に育まれる様にバックがトボトボと出てきました。まさに!トボトボと。ややっ・・。 この寒さにバッタが!よく生きていたなっと。よーく見ると、顔の長いクビキリギスではありませんか。懐かしい友に会った様です。
 子供の頃、虫好きの私は真冬にこのクビキリギスを見つけて、「ハッタだ!バッタを見つけたぞ。」と言って寵に入れて大事に飼っていました。そうそう、このバックは越冬するのです。
 ところで、この二月十三日(日)の三日前の10日(木)に豊中で此の冬初めての積雪がありました。この雪は朝から降り出したのですが、3cm程積もった後は気温の上昇により昼頃には跡形もなく溶けて仕舞いました。ところろが、三日も経っているのに島熊山の所々でこの雪が残って居るではありませんか。皆は「あっ、雪が残っている」と言うだけ。私は何故?と思う。三日前の昼頃に跡形もなく消えた雪が島熊山ではポツポブと残って いるのが不思議に思う。叉、皆に理由を間くと「日影だから」と素気ない。私は不思議で不思議でならない。子供の頃に見かけた刀根雨でも有った事です。何故残っているのか?今回は良く調べてみようと指で雪を掘り返すと、その底は何百枚もの枯れ葉とその下には腐葉土となった厚い層でした。これだ。これだ。ちょうど「積雪温存維持装置]が働いて居たのです。子供の頃の疑問が又一つ解けました。
           句・エッセイ・絵  岸 田 興 次

俳句「島熊山の自然」第七十七回   蛍池 岸田興次

屠蘇のあと希少種さがす昆虫図鑑
   今から九年ほど前。服部緑地公園事務所が中心になりスポーツ公園や人工の花壇公園から府民が本当に憩える、自然公園や森林公園化への摸倣の為に府民の要望者を募った服部緑地フォーラムが組まれました。その内の一つの班が市内域で手つかずの自然が残されている島熊山の「自然」を観察してみるという企画が提案されました。そして私が案内する事に成りました。
 当日の朝、島熊山に立って職員の方がここには市内域では希少種と言われる××××かおりますか?と質問されました。
見た者は居りますが、残念ながら私は見た事がありませんと答えました。この後、不思議ですよ。問答のあと小一時間程達て、その方の何んと足元に死んだ××××を見つけられたのです。そっと、ハンカチを出され大事そうに包まれて「持って帰ってもいいですか?」と聞かれました。その方の扱い方を見ていて私は「どうぞそうして下さい」と答えました。この事、今でも不思議な事と記憶して居ります。
 それと、もう一つ希少種を見ました。そろそろこの観察会を終えようとする頃、母子が何やら木の下で虫を探しておられます。何を捕っておられるのかと皆で近かづくと、島熊山でも少なく成った別の希少種ではないですか。注意した方が良いのではないかと皆が口々に言い合ったのですが、母子が仲良く楽しく捕っておられるので皆、遂に何 も言えなかったのです。
 その様な事が、このお正月に思い出されました。それではと、お屠蘇のあと昆虫図鑑を出して来てこの二種の虫たちをながめております。
             句・エッセイ・絵 岸 田 興 次

俳句「島熊山の自然」第七十六回   蛍池 岸田興次

ウラジロのうらの自さや白秋
 

 十一月二日(火)に実施予定の東丘小学校の島熊山観察会の下見に二名の先生が十月二十六日(火)の放課後に島熊山に来られました。代表と私がご案内したわけなのですが。ある所から東への山の道へ入って二十mの所にシダの仲間のウラジロの小群落が有ります。先生方にウラジロの説明をしようと全体を見渡しました。初めての事です。全体の三割方が完全に枯れ切っています。そうなんです。今年の夏の猛暑の影響が見事に出ています。その後ろのコシダも同然です。シダ類は、都市化のバロメーターと言います。都市化は空中湿度、地中湿度が下がり乾燥化を意味します。島熊山のような山の幅が数十mでは、この夏の乾きは凄いものでした。
 ところで、私はこのウラジロを見ると直ぐに正月のお鏡を連想してしまいます。子供の頃、このお鏡作り?は私の役目でした。さんぼうを出して、お鏡を上に乗せてダイダイ一個を買えませんので、温州ミカンを上に乗せウラジロを下に挟みます。するとたちまち本来のお鏡らしく成ります。お正月を急に身近に感じられたものです。お正月気分が出て来て浮き浮きとする気持ちにも成ります。今現在でも、このお鏡作りは私の仕事ですよ。でも、このウラジロ。何で名前の通り、葉の裏が真っ白いのか?子供の頃からの疑問でした。そして、各葉は対で左右対称に分かれているのか・・。不思議なシダですね。
 以前、兵庫県の里山でこのウラジロの葉が2mにも成っている物を見ました。朝夕の霧がかかる山では、ベストの生育条件下でこんなにも大きく育つのかと、驚いた事があります。
 ちなみに、観察会の当日に子供たちに「お鏡」知っているかと、聞きますと一人の子供だけが知っていました。今時、お鏡をおかないのでしょうか?
     句・エッセー・絵岸 田興次

俳句「島熊山の自然」第七十五回   蛍池 岸田興次

竹笛の ひとふきごとに 秋の色
 

 九月に入って二週間近く達ても、相変わらずの猛暑日の九月十二日(日)。 阪急マンション近くの山の道の根笹を刈る。昼からのくらしかん祭りの工作準備の為に篠竹?の材料も刈り取りました。午後になり易さんに持って来て頂いた、六種類の竹笛の作り方の説明をお聞きしました。木陰での恒例の九月行事のくらしかん祭りの竹工作が始まりました。十年近く続いているのかな?会員として、島熊山の材料をいかして、島熊山を作業場として子供たちが喜ぶ顔を思い浮かべながらの、暑いが楽しい工作作業準備です。 さて、篠竹ですが。昔農業資材として蔓物野菜等の支柱に使っていました。何故、篠竹を使うのかつて?それは、腐食しにくいからなのです。孟宗竹や真竹よりも、見た目にはヤワイようですが、水にすごく強いです。
 子供の頃、刀根山へ良く篠竹を取りに出掛けました。この場合は農業資材を取りにではなく、竹鉄砲を作る材料を取りにです。竹鉄砲作りは水鉄砲作りと良く似ております。但し、決定的に違うのは、口径が三m m程度です。玉は、八つ手の実。前後に詰めて後ろから、勢い良く突きます。後ろの玉が前の玉に位置が変わります。これを小学校へ持って行って打ちまくります。ついに先生に見つかり大目玉と共に篠竹鉄砲は、取り上げられました。
 懐かしい思い出を久しぶりに思いだしました。沢山ある中での豊中が田舎だつた頃の子供の遊びの一つです。
                  句・文・絵 岸 田 興 次

俳句「島熊山の自然」七十四回   蛍池 岸田興次

 夏鶯 声の輪と輪に 雨通す
 七月十一日 (日) さあー。刈るぞ。と若竹の伐採とネザサ刈りを始めて間もなく、雨粒が落ちて来る。半時もするとシノ降る雨と化す。伐採作業が中止となり、午後からの慰安会も取りやめ。帰りに、易パパと横山さんとで10月の生活館祭りの工作の試作用材料の「マダケ?」を取りに行く。頭上からの雨と共に夏ウグイスの鳴き声が木々の合間から降り注いで来る。ずぶ濡れに成りながらも我を忘れていっときの自然に浸る。
 このウグイスですが。子供の頃から、枝から枝へ小まめに渡るたびに、尾っぽを真上に頭を真下にする「ウグイス姿勢」が不思議でした。皆さん不思議な「姿勢」と思いませんか?何故?血が下がるのに、何の為にあの「姿勢」を取るのか今だに解りません。
 そして最近ウグイスで分かった事。これも疑問だったのが「ウグイス色!」皆さんも、良くご存知の様に実際のウグイス色は、決して綺麗なあの「ウグイス色」ではないですね。ウグイス色が灰色がかって、くすんでいますね。数年前に新聞記事で疑問が解けました。これは、昔々にメジロの鮮やかな色を見て、ウグイスと勘違いしてそれ以来「メジロ色」が「ウグイス色」と誤って伝えられてしまったそうです。
 「ヤダケ?」の伐採の場所で、皆で弁当を食べようとなり、横山さんからお握りを頂く。島熊山の雨の中での立っての昼食。振り返り思い出せば、10年程前に皆でくるま座で座らなく立って雪の中で昼食を取って以来です。不思議な体験をさせて頂く「山の会」です。都会の中ですよ!

              句・文・絵   岸 田 興 次

俳句「島熊山の自然」第七十三回   蛍池 岸田興次

 葉かげにも 忍びの者ぞ 若葉蜘蛛
 5月9日(日)とよなか自然ウオチッングの日。島熊山へ入る北東の入り口で、根笹の葉表にいる青色の蜘妹を見つける。
青いろの蜘妹?そう!アオグモですー・花グモの一種「わかばぐも」です。この蜘妹は懐かしいです。子供の頃、よく草の葉の表に潜んでいるのを見ました。まず、色が青いのは何故?と思い、そして蜘殊にしては、見た目弱々しい。ナガコガネ蜘妹やオニ蜘妹を見慣れている目からしたら何改、弱々しいのか疑問でした。大人に成つて、環境の厳しい屋外にいるのに・・・でも、蜘蛛は肉食で生け餌しか食べない繹猛な生きもだと解って来ました。今日のウオチイングが終わった後、西丘小学校の観察会下見の時に、テントウ虫を咥えている花蜘妹を見ました。
このシリーズを読んでいる方は、そろそろ出てくると思っておられる・・・。そうです!豊中の昔の子供達の屋外遊びです。蜘蛛取りの遊びとしては2種類ありました。今回は、これををしよ紹介しておきます。地蜘蛛取りです。遊びに飽きて「地蜘蛛取り」をしよう。と言う事になります。古い家の一〜二段の石垣とか、垣根の裾の地表にやや、筒型の四cm程地面上に結わえた様な細長い袋状の巣を見たことが有りませんか?これが地蜘蛛の巣なんです。この巣の上を小昆虫が這うと袋の中から地蜘妹が鋭い牙で捕食して仕舞います。 この地蜘昧の取り方は、袋(巣)の地面と地中との界に蜘昧が居ります。まずは、太めの小枝でこの袋の周りを三〜四cm程掘り起します。掘り起こした一番下で袋を押さえ、其れより下に地蜘妹が逃げのびるを防ぎます。それから、袋を取り出して地蜘妹を捕まえて容器の空瓶に入れます。
 地蜘妹は、正に色は茶黒で堂々としていて熊蜘妹です。地蜘蛛を持つていると皆に自慢出来ました。

        句・文・絵  岸 田 輿 次

俳句「島熊山の自然」第七十二回   蛍池 岸田興次

お見事やマメヒラタアブ空中停止
 三月十四日(日)今日は、竹林整備をしていると汗がでる陽気です。 豊島高校うえの草原は、ハコべの花盛りです。暖かさに誘われて、蜜を求めてマメヒラタアブと珍しいビロウドツリアブが来ています。花の3cm程の手前で空中停止(ホバリング)をしています。子供の頃、こんな小さな虫が空中で静止の出来るとは「すごい」「みごと」と感心していました。このヒラタアブを捕まえて、驚いたのは腹から尾にかけてペツタンコです。だから「ひらたいアブ」との名称なのかと、「ひらたい」だけに極端に体重が軽いので空中静止が容易。数秒間に何回か羽ばたかなければ成らないので胸の筋肉が相当強くなければと考えます。
 空中停止と言えば、ヘリコプターです。第二次世界大戦には間に合わなかつたですが、朝鮮動乱には実用機が導入されました。完成機に手こずったは、大型の回転翼を回すと機体が逆回転します。この機体の回転を止めるのが、むつかしかつたらしいのです。飛行機で言う、尾翼に当たる所に小型の上下回転翼を付ける事により問題は解決しました。でも、まだ問題が残りました。大型回転翼と上下回転翼の回転連動運動の問題ですが、これも、程なく解決が出来ました。導入後の朝鮮動乱では、救難、救護に大活躍しました。その後のベトナム戦では、ご存知の様に攻撃型ヘリヘと技術進歩しました。
 ヘリコプターでの海上への救難救助は、多人数の救助や荒れた海上では出動が出来ません。でも、日本では、世界に誇る新明和工業のUS-1と言う飛行艇があります。波高四〜五mでも離着水が出来、多人数の救難救助が出来ます。まず、安心です。でも、あまり海上で遭難したくないですね。
             句・文・絵  岸 田 輿 次

俳句「島熊山の自然」第七十一回   蛍池 岸田興次

枯れ葉掘る 蝉の胴・羽・足 出でし
 十二月十三日(日)の島熊山の活動日。御堂筋側の山で久しぶりに10cm以上の口径の竹を10本以上も伐採をする。
ホット一息つき、胸に付けていた島熊山の名札を無くしているのに気付く、相当激しく身体を動かしたものだ、竹の伐採の周囲を探したが見当たらない。昼からは探す場所を変えて、浅い谷底を探す、沢山の枯れ落葉が積もり積もっている。 落葉を手でかき分け、足でかき分けると「アッタ、アツタ」やっと探し出す。探している時、枯れ葉の下から蝉の頭や足や胴や羽が次々と出て来る。夏のなごりが急に出て来て、対面した様な気がする。でも、待てよ、この蝉のバラバラ部品と昔、真剣に格闘した事が有る様な‥・。そうそう、小学校の夏休みの宿題の作品提出だった。
 50年前の、豊中市の小学校の夏休みの宿題作品は、けっこう昆虫標本が提出されていました。単なる昆虫標本じゃ面白くないと思って居る時に「小学生の科学」の本に昆虫の展開標本の作り方の紹介記事があり、油蝉とシロスジカミキリムシの展開見本図が掲載されて居りました。標本の為に殺生しなくてもいい、死骸の部位をあちこち集めれば良い。よし、此れだ!と思い、汗をかきながら展開標本を作ったのを思い出す。
 とよなか市民環境会議アジェンダー21の自然部会が昨年「写真による豊中のむし調べ」を行われました。これなら、捕まえての標本ではなく、旨く考えたと思います。詳細は実物よりは、難が有りますが、十月には市の第二庁舎ロビーや十二月の環境展で展示されました。うつくしい写真でした。
 この環境展には、十校程の小学校に来て頂き沢山の小学生が、熱心に見ており、現在の自然が少なくなった豊中においての良い企画でした。
           句・文・絵  岸 田 輿 次

俳句「島熊山の自然」第七十回   蛍池 岸田興次

むかしへの 招待状 蝉の殻
 九月十三日(日)は、新御堂筋側からの根笹刈りです。1、2班、3、4班に分かれての作業です。
まだまだ、九月。みんみん蝉やつくつく法師の蝉の鳴き声を聞きながらの根笹刈りです。刈り取ろうと、握った笹束に蝉の殻が付いていました。
 子供の頃、蝉の幼虫取りや、蝉の抜け殻集めの遊びをした事ありますか?特に思い出は、蝉の幼虫取りです。夏休みの夕方遊んでいて、誰かが 「蝉の幼虫取りをしよう。」と言う事になり、チリジリに家に帰り「幼虫取り道具」を持って来ます。
それって、何??と思われるでしょう。水を入れたヤカンと虫かごのみです。まず、幼虫の取り方なのですが。水は地面の蝉穴に注ぎ込むのです。水を入れられると幼虫はビックリして体の1割〜2割を地表に出します、それを木の枝で引っばり出します。深く入り込んでいる場合は奥に逃げられます。でも、滅多やたらに、蝉穴に水を入れても取れません。自分の持分の水を無くすだけです。そもそも、幼虫は這い出る当日の朝か、前日の夜に地面を割って穴を開けておきます。その理由は、地上の気候、天気を知る為か。いざ!地上に出陣の時に穴を通しておくと出やすい為なのか良く解りませんが。幼虫の居る穴は、幼虫が抜けたなら中から外への土崩れがあり、身体が通った分だけ心もち穴が大きいです。
 この幼虫の居る穴を探しだすのは、沢山の経験と実績です。沢山取らまえる子は尊敬の眼差しで見てもらえます。こんな、遊びも子供達の自然の五感を磨く一助に成ったのではないでしようか。
            句・文・絵  岸 田 輿 次

俳句「島熊山の自然」第六十九回   蛍池 岸田興次

かなへびの アチラコチラと 顔の出し
 五月十日(日)本日は幼竹切です。一人で刈ったのが百本以上にもなります。全員で七百本〜八百本は刈りました。大変な数です。いまさらの如く孟宗竹の繁殖に恐れ入ります。幼竹を刈ろうと根元に近づきますと、かすかに「カサコソ」と音がします。あれっ、何だ?と良く見るとニホンカナヘビです。懐かしい友達に会ったみたいです。
 子どもの頃、原っぱから庭から何所にでもいました。いつもいつも不思議に思う事は「トカゲ」なのに何故「ヘビ」という名前がついているのか、今の今迄、疑問のままで来てしまいました。何時でも疑問は調べる癖があるのに・・マンホールは何故四角くなくって丸いのか?とか・・・。アマガエルが何故みどり色でなくって、茶色や薄茶色で斑点があるのもいるのか。これは、居場所による保護色なのですが、何故「カナヘビ」と言う呼び名なのか。図鑑を引くと答えはいとも簡単明瞭「尾が長く褐色をしているから」なんだそうです。なーんだ。そうだったのかとなりました。ほとんど街の中から姿を消しました。
 昔、五十年以上前には、「カマドウマ」「ハエトリグモ」「アシダカグモ」ガラスにしがみつく「ヤモリ」。皆、何所へ行ったのでしょう。今の家の中、無機質ですね。
 子どもって、他の生き物と共に生活して、いたずらをしてこそ、「命の大切さ」を知るように思います。
               句・文・絵   岸 田 輿 次

俳句「島熊山の自然」第六十八回   蛍池 岸田興次

池の底 かれ葉に届く 春の色
 3月8日(日)の島熊山草原の東側の山の整備の日。午前中の幼竹の伐採をしつつ「俳句」の題材を探すが見つからず。第68回にも成り、11年の執筆ながら鮮度を求めて作り置きせずに、この第2日曜日の今日1日に題材を探し構想を練り上げなければなりません。午前中に見つけられなければ、焦りの気持ちが沸いて来ます。代表にお断りして、単独でグリーン・ヒルの上の草原から山の方に回ってみました。見つけたのが、八つ手の実と雨後の小さな池と土筆。題材を3つも見つけてやれやれです。
 今回は、この池を詠んでみます。島熊山には、雨の後に小さな池が3つ4つ必ずで現れます。その内、新千里西町の北側の方にある池は、細長くU字溝がベースになった池で、数週間は水がたまりヒメガマも生えてきます。遠目から水面がキラッと輝き、昨日の雨で南北に7mまでに広がっています。のぞき込むと、茶色になったコナラの葉っぱが水底に一面です。そこに春の光が差し込んでおりました。
 小さな池の思い出は・・はるか昔、中学生の頃・・中学は千里川を渡って40分程歩いて通学をしており、その千里川を渡った所に、長興寺の社寺領内の森の中に隠される様に10坪ほどの小さな池がありました。森にはコクワガタがおり、池には4cm〜5cmくらいの小鮒が住んでおりました。森を出た所に都合よく友達の家があり、我々仲間がそれぞれの釣竿を家の庭に預けて下校時に釣り三昧を味わっておりました。
 島熊山の小さな池の辺りにかがみ込みながら、ふと、その当時の頃の事が思い出されました。今の豊中の中学生が、下校時にまさか、こんな自然を満喫した「下校時アウトドア・ライフ」を送らないでしょう。いや、送れないかな?

               句・文・絵   岸 田 輿 次

俳句「島熊山の自然」第六十七回   蛍池 岸田興次

つまづきて 大阪層群の 小石なり
 昨年の十二月十四日(日)の山の手入れの日。ふと見るとクチナシ(アカネ科)の実が黄色く色づいていました。
栗きんとんに食紅として使われるアァいつもこの季節が来たのだなぁと思います。根笹を刈っていると、躓きました。おっとと!と良く見ると小石が飛び出しています。その小石を持って帰って綺麗に洗って今、目の前にあります。角がなく丸く直径5cmくらいで、手に取ってみると、ずっしりと重く中央に白い線、そこからハレイションの如くに淡く白い色が四方に広がっています。大阪層群の石かもしれません。ここで、豊中の地質図を取り出して見ます。島熊山の上部地質は「古大阪層群」約三百万年〜数十万年前と記載されています。そして事実、その層群の下により古い神戸層群(約一千二百万年前)の層群が一部露出しております。この「小石」は記念品として採集年月日と場所を記入してケースに入れて飾っておきます。
 さてと、次に子供の頃の大阪層群崖での遊びです。当時の屋外での遊びの一つに化石取りと水晶取りがありました。放課後、誰ともなく「化石とりに行こう」という事になり、皆で手に掘るものを持ち年長者を先頭に一団となって行きます。場所は、今の刀根山小学校の北西の角。丁度大きな槍ガ池との間です。池の対岸の東側には、旧大阪薬科専門学校、今の大阪大学薬学部の学舎が望める景色のいい所でした。その後池もなくなり薬学部も移転しましたが、その場所に高さが4〜5mで何段にもなった層群壁が連なっていました。たまに見つかるのは、木の根の化石です。時たま貝の化石が見つかります。その時は英雄です。皆の憧れの的になります。
 確実に、現在の豊中の子供達の屋外での遊びの種類が減っていますね。色々の外遊びの体験から人とのコミュニケーションの取り方を子供の頃から学んだように思います・・。
               句・文・絵   岸 田 輿 次

俳句「島熊山の自然」第六十六回   蛍池 岸田興次

島熊に しがみつき見る 木の子かな
 十月十九日(日)の早朝に花と緑の相談所の職員さんを島熊山へ木の子の写真撮影のため案内をさせて頂きました。山の道に入るとハリガネオチバタケがあり、まず手始めと撮影。童話の世界に出てくるようなツボもツバもある可愛いまさに「これぞ木の子」と思われるテングタケ?の仲間も発見!これも写真におさめました。サルノコシカケの仲間もあって一時間ほどかけて、かけこれ十五種類ほど撮影に成功です。この後、千里南公園、服部緑地にも足の延ばして豊中産の木の子の写真を撮られるとか。
 この子の写真は十一月八日(土)に花と緑の相談所が行う講習会の「きのこのいろいろ」とのテーマで関西菌類談話会の上田俊穂先生の講座に合わせて、十一月五日(水)から十一月八日(土)まで「きのこいろいろ写真展」がありこの中に島熊山の写真も含めてパネル展示されました。
 さて、当日の講座は二時から30名程の参加者があり講師の上田俊穂先生は、桜塚高校にも講師として勤務されたとかで市内在住者としては身近に感じなから楽しく講座を受ける事ができました。きのこは植物で例えるならば「花」でありそして実が「胞子」であるから始まりました。講座の中から特記すべき事を挙げるなら、
  ◎ タマゴタケ 傘は赤いが食べられる 赤はイコール毒の色では無い。
  ◎ ハンガリー等外国では、きのこの切手が多く発行されている。
  ◎ ツキヨタケ 中毒者No1 シイタケに似ていて味が悪くないから。
  ◎ カエンタケ 最強の猛毒、触るな食べるなとの事
 振り返って子供の頃、刀根山の山遊びでも別段きのこのには皆、興味はなくって、きのこ遊びで覚えているのは、どれだけ遠くまで蹴っ飛ばすかの競争をしたくらいですね。
               句・文・絵   岸 田 輿 次

俳句「島熊山の自然」第六十五回   蛍池 岸田興次

あかまんまほらあの場所の四辻で

 九月十四日(日)の島熊山。午前中は竹の伐採。昼からは生活館祭りでの竹で作る干支の「牛」 の会員さん実習工作。「牛」作りの為に使う電動ドリルの順番待ちの間に草原の植物観察をしておりました。
  易さんが見つけた、タデ科のボントクタデそしてイヌタデ。島熊山の草原のボントクタデは以前より随分減ったそうです。そしてイヌタデ!これは、皆さん懐かしく感じられませんか?イヌタデと行儀の良い名前ではなく、そう。あの 「あかまんま」。豊中の昔の方言でも「あ・か・ま・ん・ま」 でした。子供の頃ままごとで赤飯に使った事有りませんでしたか?きっと「あるある」と返事が返って来そうです。
  当時、男の子でもけっこうままごとに参加しました。イヌタデを見た瞬間に子供の頃「そうそうあの四辻のあの場所で」ままごとをしたな。と思い出が湧き上がって来ました。幼馴染の顔が浮かんでくるのです。そして「あの四辻」現在も健在です。周囲は変わりましたが。
  あの頃、そこは旧村の本通りでしたがムシロを広げてままごとをしていても自動車なんて通りません。たまたまにトラックが通るぐらいです。そんな時は、みんなでワァワァ言ってムシロごと包み込んで一列に壁へぴったりとくっ付いてこの危難を逃れます。
  最近の子供は、ままごとをしないですね。「アウトドア」「役割分担」「友達同士のふれあい」もあると思うんです。ままごとをしないで大きくなっても別に問題は…ないでしょうが、ただ子供の頃には色々な体験をするのは良い事だと思うんですが。そして、そして、ままごと仲間。今でも道で良く会います。
 
               句・文・絵   岸 田 輿 次
 

俳句「島熊山の自然」 第六十四回   蛍池 岸田興次

           ねむ
笹笛やすきとほるいろ合歓の花

 七月十三日(目)は、グリーン・ヒル上の山道の笹刈りでした。何時もの様に笹刈りの帰り道は笹笛を鳴らしながらかえります。メロディーはとれないですが、指と指の間を狭くすれば透き通った高音の音が出るんです。季節によって不思議な事に音色が変わるんです。夏は夏の音色が出る様に感じられます。若葉、温度、湿度の関係でしょうか。皆で、山道から出る寸前の左側奥に合歓の木を発見し合歓の花を見る事が出来ました。
 笹笛や草笛ですが、この日の前日の七月十二日(土)に南桜塚子供教室の三十九名の親子の方達と服部緑地自然観察会というテーマで同行させて頂いた時も、小学校の島熊山観察会でもそうなんですが、子供達は木には葉っぱが付いている、草にも葉っぱが当然付いている。・・・と思考はそこで止まります。その葉っぱを一枚取って吹くとたちまち「笛楽器」に変わります。このささやかですが葉っぱの変身ぶりに子供達は小さな驚きと興味を持つんですよ。
 子供の頃の私が通っていた、豊中の小学校は正門と裏門に数軒の家が有りましたが、周囲は田圃に囲まれたのどか田園風景が広がつていました。学校帰りに土手で足をなげだし、ランドセルを投げ出しカラスノエンドウでピーピー笛を競い合って鳴らしたり、竹やぶの笹で笹笛を吹いたりしました。
 この笛のおもしろさは、いつもは鳴ってもその日は鳴らなかつたりと常時パーフェクトを取れない事なのです。「鳴らせる力、能力が有っても鳴らせるとは限らない」 という事実を体験できると言う事なのです。
 この実体験は、子供達が大人に成った時には知って要るべき事の様におもいます。自然は良き先生ですね。
            句・文・絵   岸 田 興 次
俳句「島熊山の自然」 第六十三回   蛍池 岸田興次

 熊ん蜂あっと飛びいでし五月笹
 五月十一日(日)の若竹の伐採の日。雀蜂が居るかも知れないという土手の下で、笹刈りをしておりました。
突然、笹葉の蔭から蜂が飛びだしました。あっ!雀蜂だ!と思った瞬間。黒と黄色の丸々とした熊蜂でした。やぁーっ、違ったと安心。
 以前、家の軒下で夜な夜な「コリッ」「コリッ」と単調な音が鳴り止みません。不思議で、不思議で仕方がなく、朝になって見ると何と、熊蜂が出入りしているでは有りませんか。これはもう殺虫剤で追い払いました。名前は熊でも、熊蜂はおとなしいのですが、雀蜂は攻撃性があって恐ろしい。「雀」は「熊」より当然小さいのですが・・・名前が逆じゃないかと思う位です。でも、雀蜂は人が気づかずに巣の防衛空域内に侵入したから攻撃をかけて来るので、人を見るとただ、ただ襲って来る殺人蜂ではないのです。そこのところ皆さんご理解して下さい。
 子供の頃、魚釣りの餌として蜂の幼虫を使います。この場合は蜂と言ってもアシナガ蜂です。釣りの餌が必要になった時。皆で長い竹竿を持って幼虫取りに出掛けます。竹竿で巣を突っついて落とします。それっとばかりに蜘蛛の子を散らすが如く逃げます。戻って来ると、巣の付いている所に成虫の蜂が何匹か、転がった巣にも成虫が何匹かくっ付いています。何度か竿で突っついて移動させます。仕舞いにわ巣に付いている親蜂は居なくなります。其処でやおら巣から幼虫を取り出します。でも、たまに薄皮を破ると成虫まぎわの蜂が飛び出して来てびっくり。 まあっ・・豊中の田舎の子供達の蜂にまつわる思い出でした。
            句・文・絵   岸 田 興 次
俳句「島熊山の自然」 第六十二回   蛍池 岸田興次
 
空と木と土も島熊山の春



 三月九日(日)の竹林整備の日は、先月度の雪の日の根笹刈りと打って変って青空がひろがって汗ばむ程の陽気でした。
今日は新千里西町側の竹林の伐採。この竹は、不思議な竹で節間が長い。長い所で40cmほどもあるのです。葉は剪定したかの様に主枝がなく竹の葉が出ています。栽培種かナ。

 竹を切りながら、ふと空を見上げると「春の空」なのです。その空を仰ぎながら、豊中の空は終戦後十年程は綺麗だったなあ、特に夜空は星が降るが如く一面の天空。天の川が肉眼で見事に見えました。そうそう、その逆で闇夜がありました。最近「闇夜」を旅行か何処かで体験されましたか?数m離れていれば、人がそこにいるのが分からないような真っ暗な夜が豊中にもあったのです。変に「闇夜」が懐かしいです。
 次は、木と竹。市内には沢山さんの古木、大木が道際に生えておりました。一抱えもある渋柿の木や、人が下を通ると砂を掻ける妖怪が住んでいると伝説がある榎の大木。み−んな道路拡張で消えてしまいました。道幅は江戸時代以前から馬力が通る幅で良いのですから。そしてマダケの小さな竹薮があちらこちらに。きっと青から少しの空き地があれば植えたのでしょう。農作業の資材として、竹の子は食材として。良く取りに行かされました。たしか、竹の子は孟宗よりも遅く六月頃だった気がします。今は、これも何処にも見あたりません。マンションの敷地の一部として消えたのでしようか。
 最後は土です。何処にでも有った土。焼夷弾の火災で焼けた、真っ黒な土。土だけを見ていても季節の移り変りが瞬時に分かる気がします。今回も思い出のエッセイに成ってしまいました。

            句・文・絵   岸 田 興 次

俳句「島熊山の自然」 第六十一回   蛍池 岸田興次
 
冬の夕日島熊をへて六甲山



 十二月九日(日)の山の整備の昼食後は皆でグリーン・ヒル上での根ザサ刈りです。 どんどんと2m幅で刈り進んで行く。休憩の為に手を休め、ふと振り返ると冬の日が西の空に。
奥の下の方から見上げると、まさに島熊山の雑木林に掛かろうとしていました。ここから眺めればタ日は島熊山に一度落ちてから二度目に六甲山に沈む事に成ります。奥からは南朝側が根ザサのトンネルの様で見上げれば小高い草の土手と雑木林の頂上部と夕日しか見えません。人影も見えません。しばらく眺め入りました。豊中でこんな情景に巡り合えるのは、今や島熊山とその一部の場所でしょうか。
 ところで、昔。そう。小学生の時だったです。「豊中市歌」が出来たと記憶しています。六甲〜は〜るか♪野〜は広〜くぅ だい〜の大阪〜♪。と言う市歌です。ご存知でしまうか?
 ここ迄書いていて余談ですが、六甲山で思い出しました。あの山の最高峰にパラボナアンテナが二基有りましたでしょう?そう最近まで。あれは、終戦後に進駐軍が京阪神をカバーする通信用施設だったですよ。とっくの前から通信衛星があるのに。最近やっと米軍から返して貰えました。
 話は戻ります。その当時市内の少し高い所からなら、何処からでも夕日は六甲山に沈むのが見られました。そして、野は箕輪、走井、勝部、原田、庄内、庄元と広かったです。今は、六甲山に沈む夕日を眺められるのは、人工物の中からか泉丘の場所からでしょうか。そして、野は殆どなくなって仕舞ました。この歌に唄われている景色は私の頭の中にあります・・・・。
        句・文・絵  岸 田 典 次

俳句「島熊山の自然」 第六十回   蛍池 岸田興次
 
ドングリの ひとつ笑顔の 手のひらに



 十一月二日(金) は東丘小学校の三年生の2クラスの計五十七名の島熊山の観察会の日でした。

 いや〜子供達の喜んだ観察会の内容は何だったか分かりますか?勿論、草や花の説明ではなくて葛の菓をボンと鳴らしたり、笹舟を作ったり、そして笹笛を吹いたり又ドングリ人形を作ったりする、昔ながらの遊びでした。今やこんな遊びは若いパパやママが子供達に教えたりしないみたいですね。いわんや、がき大将は遠い昔に絶滅してしまっており化石として名をとどめておるぐらいですしね。笹舟作りは全員が大熱中。うまく出来た子や出来なかった子や、まして笹笛となると鳴らした子はクラス二十八名中の二〜三名です。でも、これがいいのです。皆出来るのではなく、二〜三名の子供が出来たのですから。教室での勉強ではなく「器用」な子供が出来たのですから。この「器用」は将来生きて行く上での大きな「能力」に成ると私は考えるんです。
 そしてドングリの人形作りなのですが‥・。人形作りの元になるドングリそのものなんですが。不思議ですね?何がって?野山にドングリが落ちていると大人も子供もつい拾ってしまう事がです。我が家の子が高校生の時に熊本までサッカーの試合に行って帰って、みやげだとドングリを2つポケットから出した時に、このスポーツ人間がこんな「自然」を拾って来るとは。うーん。ドングリには人間の心を魅了する「力」があるんだと確信しました。ましてや小学生は「人形作りのためにドングリを拾って下さい!!」なんて言うものならワーツといっせいに手が出て拾う。「拾うのを中止!」と言っても止まらない。去年の生活展の工作でドングリで作ったトトロ人形の人気があつたのもうなずける訳です。
 「ドングリ」に魅了される大人も子供もいる限り世の中の様々な問題もいつか解決されそうな気がするんです。飛躍しすぎかな?
            句・文・絵  岸田 興次

俳句「島熊山の自然」第五十九回   蛍池 岸田興次
 
目と眼あって 草のうらへと あきの虫



 九月十日の午後は少路小学校の4年生の観察会の下見の日でした。
豊島高校の東の上の草原で、秋の虫達を間近で見てみようと草むらの虫の子達にグッと顔を近づけると、虫の眼と私の目が合った様に思えた瞬間、次々と虫たちは草の葉の裏へ草の葉の裏へと隠れて消えていきました。次々と消えてゆくさまはドミノ倒し風で面白い光景でした。
 さて私の秋の虫の思い出の一番はコオロギです。大きな鈴を転がすように鳴き、大きさも共にコオロギの王様のエンマコオロギです。子供の頃、籠を持って良く取りに行きました。畑の草の茂った野菜堀場の様な所にたくさんおりました。網を持って行かないのは、当時お金を出して買うなんてよほどの事でした。棒切れで追い込んだり素手でつかまえたりするのが当たり前だったんです。次のコオロギの思い出はミツカドコオロギです。豊中では方言として三角コオロギと言っていました。おそらく顔の形からでしょう。「チ・チ・チ」と、か細く鳴くコオロギの種類です。皆さん捕まえたことありますか?このコオロギを探し出すのは難しいですよ。まず「チ・チ・チ」という一本調子の細い声だけを頼りに居場所を探し出します。でも、この声が曲者なのです。耳をそば立てると四方から聞こえてくるような錯覚に陥ります。当然一方向からなのですが、丁度ニイニイゼミやケラの鳴き声と似ていて、居場所の方角が定まらないのです。まず、声を大きくしたり小さくしたりして、遠い近いの距離感を敵からはぐらかします。裏声と表声を出して裏から表へ変える時の声の幅の間を左右に振って左側からか、右側から聞こえるのか分からなくしています。こんな風に考えるのは私だけかな?ついでに推測として自ら声を出して自分の居場所を敵に知らせている様なものなので、長い間にこれらの虫の防衛策として居場所をはぐらかす鳴き方を身に付けたのかも知れませんね。
           句・文・絵   (岸田 輿次)

俳句「島熊山の自然」第五十八回   蛍池 岸田興次
 
闇よりの茶色の使者か日陰蝶



 7月8日(日)は山の道の上の屋根道からグリーン・ヒル上迄の根笹刈とクズ刈です。  我々第一班は尾根道の根笹刈。刈っていると久しぶりに、ひかげ蝶を見かける。昔は豊中の林や少し暗い道筋にも見かけたものです。ひかげ蝶はけっして日向には出なくってうす暗い所に住み、樹液や腐った草や木の果実に集まる蝶々なんです。
 子供の頃、このひかげ蝶をよく追いかけました。高くも飛ばないし早くもなくリズムを打つ様に飛ぶので追いかけるのに程よいのです。子供にとつてはちょうど良い遊び相手だったんです。でも子供心にこの蝶々には疑問がありました。モンシロ蝶に似ているのに何故色は地味な茶色なのか?モンシロ蝶やアゲハ蝶のような「美しさ」が何故ないのだろう?私なりにひかげ蝶の「あわれさ」を感じていました。そして羽根の裏側の「目玉」のような模様にも不思議さを感じました。暗い所では良く目立つのです。これは擬態だつたんですね。「目玉」だったんですね。外敵から自分自身を大きく見せる為の!追いかけながらの疑問なんですが、いくら追いかけ回してもけっして太陽の下には出ません。一度やって見て下さい。このことも不思議でした。大人になって考えました。ひかげ蝶は闇の世界より送り出された使者なんだと。
 さて冗談はともかく、これは住み分けというものですから。でも「モンシロ蝶さんは日の当たる所に住みなさい。ひかげ蝶さんは日陰に住みなさい!」と誰かに命令された訳ではないでしょうね。きっと昔々にひかげ蝶の先祖が、日向に住む蝶々が断然種類が多いので日陰の生活に活路を見出したのでしょう

              句・文・絵  (岸 田 興 次)

俳句「島熊山の自然」第五十七回   蛍池 岸田興次
 
おおぞらや5cm程の柿青葉



 五月十三日(日)島熊山の竹の間伐の日。今日からは公募の里山ボランティアの3名の方が参加されました。山に入って見ると、なるほど風薫る5月とはよく言ったものです。気持ちがいいです。足元をよくよく見ると約5〜6cmの柿の幼木が、1本、2本、3本あります。それも小さい割に柿の木とわかる葉っぱを3〜4枚も付けて「私は立派な柿の木です。」と主張しているようです。竹を伐採して4年程であちこちに朝倉サンショの幼木が、それに続いて赤松の幼木が現れて。それから数年を経過して今年は柿の木が目立ち始めて来ました。「柿の木」は子供の頃の思い出の多い木です。原っぱにある柿の木の内、登り易く途中に三本の枝分かれした所に座ってボーット空を見上げていたものです。特に思い出に残っているのが・・・。戦後、ゲルマニュウムラジオが流行り出した頃。年上の子が最も高い柿の木に登り最高の感度を取るためにダイヤルの調整をしながら方向を定めて聞き入っている姿を。きっと雑音が入って聞き取りにくかつたのでしょうが。でも、柿の木の下で我々小さい子はその未知の最先端の機械−ゲルマニュウムラジオというものをさわってみたい、聞きもしたいと羨望のまなざしで眺めていました。今日の携帯電話以上の驚きと最先端機械に思えました。いやーっ「柿の木とゲルマニュウムラジオ」の妙な取り合わせを思い出してしまいました。
 柿の名の由来は「あかき」すなわち「赤黄」という柿の果実が熟した色から連想されたそうです。漢字の 「柿」は薄い木片を意味して、昔はこれで屋根を敷いたそうです。信じられないような話しですね。
         句・文・絵  (岸 田 興 次)

俳句「島熊山の自然」第五十六回   蛍池 岸田興次
 
春の土島熊山の土の道



 三月十一日(日)のコドラード調査、希少健調査の日、島熊山の土の道を歩く。靴で踏み込む大地の土の感触。馴染む様な柔らかさ。アスファルト道に慣れてしまった足の裏に土の感触を甦らせる、そして足元からの土の匂い。不思議な安定感。精神的な安心感をもたらせます。
 豊中市内の道は100%の完全舗装とか。でも、あるんです。土の道が!島熊山以外でも。待兼山?いえいえ、それ以外で。春日町の竹林の道?それとも羽鷹池の周辺?いえいえ、そんなんじやなく数キロにおよぶ土の通が。市内に!それって、どこどことお聞きになられるかもしれません。が!お教えしません。ご自分の足でお探し下さい。車で遠出ばかりしないで、その、御自分の足で!春の土の道をお探しください。
 子供の頃、豊中の道は完全 「土舗装」 でした。俗に言う産業道路は別にして全て土の道でした。そして遊びましたね。その土の道で。石蹴りをして。ゴムだんをして。棒切れで絵を書いて。楽しく遊びました。楽しいばかりではなく転んで怪我もしました。雨の日は、皆んな長靴を履いて水溜りに飛び込んで水のはねにかかり喜んだり、服にかかり悲しくなつたり。色々と土の道の思い出がでてきます。 これって!ひるがえつて現在の市内の子ども達が、こんな楽しい 「土の道」 を知らずに大人に成っていくんですね。IT化もしかり、塾通い、テレビゲームで成長して。立派な大人に成るのかな。でも、馬鹿げた遊び、そして不便な道の無駄な 「遊び心」 「不便の効用」は子供の心に柔軟さと包容力を育てるような気がするんですが・・・・「土の道」をあっち、こっち、少しでも少しでもあれば。皆さんは、どう思われますか。
                 句・文・絵  (岸 田 興 次)

俳句「島熊山の自然」第五十五回   蛍池 岸田興次
 
冬空のおお書きしての根笹刈り



 昨年の12月17日の活動日と清掃ハイクに新千里西町側の根笹刈りをしました。
山の裾野から刈り上がって行くのでが、何年も手を付けていないので根笹が半端じゃない!測って見ると3m20cm。これは、根笹の釣り竿が出来てしまう。といっても「しなり」すぎますが。根際から束にして切り倒し積み上げる時にこの 「しなり」効果により葉の付いた先が大分遅れて付いて乗る。まるで冬空を書道の用紙に見立てて習字をしているが如きでした。積み上げられた根笹の山を眺めていると、このまま鹿蝕させてしまうのはおしい!もっと有効な活用法はないものか?、
 この後に、新聞の掲載記事で生物資源 (バイオマス)を原料にした燃料が今、注目されている。特に太陽光を浴びてどんどん育つ植物は、無尽蔵とも言われる。そのカギは植物の繊維質セルロースが握っているとの事。木くずを処理して何度かの工程を経てアルコールのエタノールが出来上がる。このエタノールはガソリンに混ぜ自動車の燃料に使う。これは木くず、稲わら、麦わら、建築廃材、紙くず、果ては雑草まで、セルロースの廃棄物で作られているそうです。ぶどう糖が鎖状に連なったでんぷんのアミロースもセルロースも糖の一種との事。
 ここまで書いて思い出したのが今年のクイズでのもち米は、どの様にして出来たのか?もち米は酵素の遺伝子が突然変異でアミロースがつくられなくなって出来た、うるち米の突然変異種。うるち米のでんぷんは、ひも状に連なった「アミロース」と枝分かれした樹形状の「アミロペクチン」の両方が含まれているそうだ。もち米はアミロースが含まれないので、でんぷんの構造が崩れやすく、独特の「粘り」につながる。でんぷんが、いわば「鉄筋のないコンクリート」になるらしい。セルロースもアミロースも良く分からない素人の浅はかな新聞記事の文章説明はこの程度で申し訳御座いません。
             句・文・絵 (岸 田 興 次)

俳句「島熊山の自然」第五十四回   蛍池 岸田興次
 
近づくと 野薊の花 三つ四つと



 6月の清掃で新千里西町の市道沿い。島熊山側のフェンス越しに遠めにアザミの花を見つけました。近づくにつれて、三つ四つと次々と花が目に入って来ます。毎年この辺りで見にしますが、今年も迎えるように咲いてくれたのだなぁ・・・・・と嬉しくもなり、しばしば見とれました。
ノアザミでしょう。この時期、ノアザミに良く似た紫色の花をつけるのがなんとコボウなのです。知っておかれる方もあると思いますが、素人目にも花が非常に良く似ております。初めて見たときはゴボウの花とアザミに花が似てるなんて!と思いました。花の時期もほぼ同じですし、ゴボウとアザミの花が何故?こんなに似ているのかと図鑑を引くと、何と!同じキク科。アザミ属かどうかは分からないけれど、なんだ!似ているはずだと合点がいく。
 このキク科のゴボウ、スーパーの野菜売り場で並んでいる通り、真っ直ぐな直根。でも小石とか土の固まりや肥料がムラムラの状態の土壌では、ゴボウのイメージから程遠く似て非なるものになってしまいます。そうマングローブの根のように、タコ足になっってしまいます。直根といえば、野草ではタンポポ。以前タンポポコーヒーを作ってみようとタンポポの根を掘り起こして集めたのですが、固い土壌に生えているタンポポの根でさえ真っ直ぐな直根。枝根のタンポポの根など出てきませんでした。
 やはりゴボウは保護された栽培種なのでしょうね。少し障害があれば曲がりくねる、外的要因に弱いといわれる現在の子供たちに似ているのかな。昔は子供たちは、日々小さな困難に向き合っていたように思います。こんなことでも今の子供たちは幸せなのか、そうでないのか考えさせられます。
         句・分・絵  (蛍池  岸田 興次)

俳句「島熊山の自然」第五十三回   蛍池 岸田興次
 
ゾウムシは確認をして飛びにけり



 五月十四日(日)は若竹の伐採。竹を刈っていると開けたバックの中に、小さな体長五ミリメートルほどの「ゾウムシ」が入り込んでいました。そっと取り出し、指の先に乗せると指の先でぐるぐる何度か回ってよくよく見てから飛び立ちました。小さな虫にも飛び立つ前に方向をしっかりと確認するのには感心しました。ところで、今年の春先は気温も低めで、雨も多く日照不足もあり、野菜の成長も遅いとの事。それが、竹の子にも影響が出るとは思いませんでした。例年四月には、たくさん出て来るのに島熊山でも少なく千里中央公園でも少なかったです。そして五月となると細い竹の子がまたまた、例年よりも少なめに出て来ました。

 寒い年は少なめ、来年おくりでしょうか。竹もよくよく考えておりますね。このよくよく考える「竹」をも伐採を始めて六年。今年で七年目に入るのか?伐採跡は見事にコナラ、アベマキ、アカメガシワ、ヒサカキ・・・・・・と芽が出て来て、中には栽培種の朝倉ザンショも街路樹のマルバシャリンバイやセイヨウミザクラまでも含まれております。樹種が周辺の低木も混ざった状態に成って来ております。たしか以前、自然学習講座で島熊山の竹林の伐採が進んで遷移がおこれば、本来は春日神社のようにツブラジイの森に成るところが原始豊中ではないので、周辺の常緑樹が中心に入って来るだろうとの予測をされていました。主が無くなれば、次の従が主に成っていくっていうのは、どこかの社会と似ていますね。これも自然界かな。この日にいつも「キンラン」を見に行きますが残念なことに花が散ってしまった後でした。この「キンラン」も含めて大切に保存していきたいです。
            句・文・絵 (蛍池 岸田 興次)

俳句「島熊山の自然」第五十二回   蛍池 岸田興次
 
春のあめ おおぬまこぬま 島熊野



 今年は春先から良く雨が降る。前日降った翌日、三月十九日(日)は島熊山の各種の調査。 上手く晴れてくれました。希少種調査のためにグリーン・ヒル横の階段を上る。登ったところから、尾瀬のような大沼と小沼が出現していました。梅雨時でも、こんなに水溜まりができていることがなかったのに。こんな沼が以前からあればキット、水辺の希少種が実在していたのでは。日当たりも良いし。
 そうそう、中央環状線から東豊中高校へかけての島熊山の南から段落状に落ちたあたりは、地下水脈から水がわき出し沼があり今は絶滅した、モウセンゴケがあったとか。  何千年も前から島熊山に降った雨は地上及び地下水脈を通って千里川に流れ入り猪名川を経由して淀川(神崎川)から海(大阪湾)へ流れ込んでいたのだろう。こんな小さな島熊山の森林も水を涵養するし、少量のCO2も吸収する。山の花も咲かせる。小さな森にも色々な要素で成り立っています。
 戦後数十年は、耕作地には水が是が非でも必要であり、現在の市内域にあたる田畑を潤すのに千里川と天竺川だけでは、たりずに何十の溜池が存在しました。阪大の総合博物館の準備室に揚げてあった阪大の周辺の江戸時代の絵図には、エッ。「こんなところに池があったの。」と現在では、驚くような所に農業用溜池がしるされておりました。必要な「水」ですが、一度に有り過ぎても困りものですね。大洪水で、家も橋も流されてしまう。田畑も水に浸かって多大な被害を蒙る。でも肥沃な大地、大阪平野はその川の氾濫の繰り返しで出来上がったとか。
 前回は、風の必要性を書き、今回は水の事を述べました。機会があれば子ども達に水の話をしてみたいと思います。
             句・文・絵 (蛍池 岸田 興次)

俳句「島熊山の自然」第五十一回   蛍池 岸田興次
 
一群の群れの如くに枯れ葉向く



 一月十五日(日)の山の清掃の途中で落ち葉の残ったアベマキの木を見上げる。
頂上部よりも中から下にかけて枯れ葉が残っている。よくよく眺め入ると北風によって木に付いている枯れ葉がいっせいに北から南向きの方向に流れている。ちょうど、流れの上流に頭を向けた川魚が群れを成すような一つの固まりにも見えてくる。
 風の話。人に、植物に必要なものはと、質問をすると「太陽」「土」「水」「肥料」と答えが返って来ますが「風」という返答が少ないのですが実はこの「風」は植物にとって非常に大切らしいのです。
稲でも「風」に吹かれて揺れることにより根ばりが促進され生命も保たれ成長もするそうです。そして「風通し」が悪けれがイモチ病の繁殖もしやすいです(イモチ病は低温や多雨にもよる)。又、ウンカ、ヨコバイ等の稲の大害虫の発生の元にも成ります。  北風の話。昔、豊中の農家でもソラマメ、エンドウの苗が北風を受けない様に北側に風避けを設けました。今はここ数年の暖冬のためか、寒さで苗が枯れる事もなく木枯らしを防ぐ必要がなくなりました。
 風の諺の話。風の吹きまわしは、「物事のはずみ・ぐあい」とか、風を食らうは、「あわてて逃げるさま」。あとは、そうそう、風当たりが強い、とかありますね。
 最近は、建築物の中に二・三階とも吹き抜けにして常緑樹の大木を置いておりますが、豊中のライフサイエンスビルの中とか関西空港のビルの大木は風が通らないので、メインテナンスの方が木を揺すっておられるのかな。
          句・文・絵 (蛍池 岸 田 興 次)

俳句「島熊山の自然」第五十回   蛍池 岸田興次
 
蜘蛛の巣をくぐりくぐりて小春空



 十一月十二日(土)山の日に自然部会主催の島熊山観察会がもたれました。
東南への山の中の道には、ジョロウグモの複雑な巣が行くてを次々と阻みます。蜘蛛の巣をくぐるごとに小春空を仰ぐことになります。
 蜘蛛の話に成りますが、子供の頃、よく蜘蛛と遊びました。地蜘蛛(ジグモ)採りです。皆さんやらなかったですか?地蜘蛛の巣を見つけて、上から細い木の枝を差込むと餌さと間違って蜘蛛がくっ付いて上がって来ます。つかまって来ない時は巣に沿って掘り下げて行き地蜘蛛を捕まえます。地蜘蛛を何匹とらまえたかで、競い自慢出来ます。
 それから、蜘蛛のロマンのお話。時々記事として掲載されますが「雪迎え」という蜘蛛の飛行の話。西欧でも中国でも見られるとの事。糸が銀色に輝きながら自分の出した一〜二mの糸で上昇気流に乗るらしく大旅行をするとか。繁殖域を広げるのが目的と思われる のですが。これは、蜘蛛のみの出来得る方法ですね大した蜘蛛知恵です。これを目撃したとしたらロマンですね。輝きながら飛ぶって蜘蛛が!ホント。みて見たいです。
 現在、我が家にはシロヒゲハエトリグモがおります。このシロヒゲ置時計の秒針が来る、定位置に掴まり秒針が来る度に獲物に飛びかかります。当然、前にはガラスがあるので目的を果たせず又六十秒を待ちます。数時間で居なくなる時もあれば一日中、とまっている 場合も有ります。ハエトリグモも定位置を確保する習性が有るみたいです。見ていて飽きません。
 ただ、蜘蛛も数年前から関西でも騒がせている例のセアカゴケグモ、あれは、ちょっと問題ですが・・・、
                句・文・絵 (岸 田 興 次)

俳句「島熊山の自然」第四十九回   蛍池 岸田興次
 
つくつくの声の間合いも鋸の音



 九月十一日(日)雲ってはいたが日中は真夏。午前中の汗の海から上がって、昼からは、生活館の工作準備。つくつく法師の合唱の下での工作の材料作り。豊中でこれだけのつくつく法師の声のシャワーを浴びれるのは、ここ島熊山だけではないかな・・とおもいます。子供の頃から「この蝉だけが、どうして日本語で鳴くのだろうか?」との疑問をこの歳まで持っております。「皆さんそう思いませんか?」ほかの蝉は―熊蝉はシャンシャン。油蝉はギイーギイー。ニイニイ蝉はチッチッ。あとは、ミンミン蝉が少し日本語と言うんでしょうか。ミーン、ミーンと漢字に直すとaaの餃子屋のようですが。でもこのつくつく法師の言葉は、ハッキリした日本語です。「つくつく法師!つくつく法師!そこにいーよ!そこにいーよ!」と言っているように聞こえますが、皆さんは、なんと言っているように聞こえますか?我が家の子供は何と「トッポ・ジージョ!」と聞こえるそうです。これは、「聞き取り」と言って人によって聞こえ方が違うそうです。外国の人に聞かせると又違うよう聞こえるようです。例えば、日本ではニワトリはコケッ・コッコーですが、欧州各国では違うようです。各国の風土、環境、気候、人種によって同じ音が違って聞こえるって不思議なものですね。
 国内では、恒例の秋の鳴く虫の観察会でも日本人には、虫の「ねいろ」にきこえるが、外国人では虫の「おと」としか聞こえないそうです。これは、右脳で聞き取るか、左脳で聞き取るかによる違いだそうです。だから外国では、鳴く虫の鑑賞会は、存在しないです。 前回の訂正です。日本の飛行器の第一発明者は忠八だそうです。ここで、お詫びします。
            句・文・絵  (岸 田 興 次)

俳句「島熊山の自然」第四十八回   蛍池 岸田興次
 
すーうーとうしろからまへ三筋蝶



 6月下旬に島熊山の千里少年文化館の西南域あたりを歩いていると、はばたきもせずにすべるように三筋蝶が後ろから私を追い越していきました。この時他に見つけたのが、植物では千両です。昆虫では少しめずらしいゴマフカマキリ。そうそう、島熊山以外ではもうないのではと思われるのが、まめづた(うつぼし科)が樹木にびっしりとおおっている、コナラの大樹があります。山の斜面から、雨水が直接流れて古池に入る直前にあるので、このように「まめづた」がびっしり張り付いていると思われます。市内で他にはないのでは?待兼山の「上山池」も埋められてしまっている。五郎谷でもこのような条件下ではないと思われます。ところで、三筋蝶を見て思う事。人は、はばたかなく大空を飛ぶ飛行機をどうして考えついたのだろうか?まさか、三筋蝶を見て思いついたのか?それともワシ、タカが上昇気流をとらえてはばたかない姿を見て、レオナル=ダ=ビンチの飛行機は、はばたいたかな?日本で始めて飛行器を発見した金次郎?の飛行器もはばたいたかな?世界で初めて飛行したライト兄弟の飛行機の時代にはエンジンが完成していたので、はばたかずとも人工の上昇推進力の力を借りて、固定翼の理論で飛行は可能との判断をしたのだろうか。いつも、ここの点で不思議が頭をかすめ飛び立ちます。
            句・文・絵  (岸 田 興 次)

俳句「島熊山の自然」第四十七回   蛍池 岸田興次
 
小判草沸くイメージの時は江戸



 5月8日(日)今日は、ボランティアの皆さんも入れての大所帯。
豊島高校上の草原で、足元を見れば小判草から小判に似た穂が15〜20程ぶら下がっている。この植物、ヒメコバンソウを別にして市内域の南から東西地区でも見たことがなく今の所、北地区、特に千里方面に限られた植生の様です。万博造成時に土壌について来たとも言われています。ヨーロッパ原産ながら見ても小判そっくりで「あらっ、小判草」と耳で聞けば、私は江戸時代のイメージが、フッフッ沸いてきます。帰化種の感覚を持つ事が出来ません。皆さんは何だ「帰化種か!」と思ってしまわれますか?それとも私の様に江戸時代へタイムスリップしてしまいますか?
 ところで、貨幣といえば縄文時代等は物々交換だった。そして昔々の南太平洋のミクロネシアやポリネシアでは人間が担げるような真中に穴のあいた大きな石だったとか何かの記事で読んだ事があります。日本で通貨が初めて造られたのが708年の和銅開珎・・・いやいや、つい最近それより古い貨幣が見つかったとかどうかの報道があったような。
 そして、古い時代は貨幣が手段であって目的が希望、欲する物を得るのに使われていたけれども、近代から現代に至っては手段が目的に変化してしまい。貨幣の蓄積や力と目的化されてしまっている。社会の複雑化、高度化による人間関係の構造の変化の結果だろうか。
 字数を間違ったので―余談―当日は暑くもなく、寒くもなく良い気候であった、島熊山案内の途中で久しぶりに「地が蜂」を見る。土に掘った巣穴に何やら青虫を運び込むのである。山地に多い「フジジガバチ」かもしれない。
            句・文・絵  (岸 田 興 次)
俳句「島熊山の自然」第四十六回   蛍池 岸田興次
 
春笹や蚤らしき虫地図の上



 三月十三日(日)は、昨年からの希少種の移植調査の為に午前、午後の部も共に島熊山の中を歩き回る。背丈ほどの根笹の中を通り過ぎると、何と!台紙上の地図に小さな虫二匹が乗っている。その内の一匹が体長の十倍ぐらいのジャンプをする。私が、「やぁやぁノミだ。」と言うが、易パパがノミの形がせず、後ろ足も長くないと言う。そんなはずがない、とか、なんとか、かんとかと言いながら何の虫か判らずで、無理に一件落着とする。又、調査途中で、易パパが人から借りたペンがないと言って探さなければと言いながら少ししてポケットから出てくる。何だかバカバカしくもおかしくなる。珍道中であった。いや、調査でした。
 話は、変わって紙芝居の事ですが、絵本・紙芝居作家のまついのりこさんが「紙芝居文化の会」を主催されておられ当初紙芝居の持つ不思議な『力』にハッとしたそうです。そして「絵本は本の中に読者を引き込む。でも、紙芝居は登場人物が舞台から飛び出してくるように感じる。演じる人、見る人が共感し合えるのではないか」といっておられます。
 賛同者と「出前紙芝居大学」を開設して全国各地を歩き、その魅力を紹介されておられる。そしてまついさんはやがて、命の誕生や人間の成長をテーマに作品を書き始めたそうです。「紙芝居は、子供の中に他人を思いやる心を育てるはず」。それが活動の支える信念だそうです。「ページを抜き取るスピードを変えるだけで、印象が違います」。言葉や表情はもちろん、全身を使ってどう子供たちとコミュニケーションを取るか。「紙芝居の命」を伝えるまついさんの説明には、力がこもっております。
 私も自然観察の中に紙芝居を取り入れて演じておりますが、恥や外ぶんも捨てて少しでもお役に立てればと思っております。
            (日経新聞より一部の記事抜粋)
            句・文・絵 ( 岸 田 興 次)

俳句「島熊山の自然」第四十五回   蛍池 岸田興次
 
ルリビタキ去りし水場や冬深し



 今年も早々と一月九日(日)の総会と新年会の日がやって来ました。
昨年と同じく総会の前に、島熊山へ足を踏み入れる。「山の道」から、昨年見つけた小鳥の水飲み場まで一直線で歩く。上の尾根道から急斜面下六m程の所に直径一m三十pの小さな水飲み場がある。雨水が一カ所に集中するのと下の地盤が固いのか、常時水が溜まっているとの易パパの弁。(易パパは、以前から知っておられた。)水の深さ十五pほど。真夏でも水が溜まっていたそうな。
 昨年見つけたときはシジウカラが十四、五羽渡るように水を飲みに来て、一瞬にして去っていった。その後、ルリビタキがやって来て少しいて飛んでいく。我々が知るとっくの前から、小鳥たちはこの、水飲み場を知っていたようだ。きっとキツネもタヌキも知っているのだろう。彼らの生息の絶対条件がこんな処にあったのだろうか。山の道作りの昼から時間をもらい易パパと井谷さんと水底を深くし溜水量を増す為に片側土留のかさ上げをする。今後とも、生き物の為にこの水飲み場を静かに見守って行きたい。
 水の話ですが、東京都日野市の潤徳小学校には、敷地の中に引き込んだ用水が流れている。宅地化の進む日野市だが、なお残る水田に水を供給する農業用水が、学校の裏を流れている。市が水辺の自然を復元する事業を進めるとき、校庭に用水を引き込むことを考えた。身近な自然と、生き物に触れ合う場を提供することで、子供たちの豊かな感性を育てたいとの願いだった。評判を聞きつけて、全国各地から視察が絶えないとの事です。(後半部、朝日新聞から抜粋)
       句・文・絵(岸田 興次)

俳句「島熊山の自然」第四十四回   蛍池 岸田興次
 
大野分(おおのわき)舞い踊る木々の大舞台



 十一月十四日(日)この夏からのたび重なる台風の爪跡の整備を、まず山の中の「山道」のあとかたずけとなりました。
山の中は、さすが倒木こそ少ないが辺り一面が、枯れ枝の散乱。台風が吹き抜けた方向へ、一斉に枝や葉っぱが向いています。おのおのの、風の通り道でその姿が見られました。それにしても、この枯れ枝の山。おしい!もったいない!子供の頃の、へっついさん(カマド)そして五右衛門風呂があれば何年間もの燃料になるのに。おしい!もったいない!
 そうそう、当時子供の頃、五右衛門風呂を沸かすのは、子供の担当の仕事でした。その時は、ウンザリでした。遊びたいのに。それで、いやいや、薪や柴をくべるていると煙ばかり出て炎が上がらずなかなか、沸きません。これでは、何時まで達っても焚口で拘束され遊びにいけません。一計を案じました。よし!早く焚き上げる方法と、燃料も少なく節約できる方法を考案しようと、努力してその焚き方を身につけました。現在でも自信があるので、今、全国五右衛門風呂焚き選手権大会があれば出場して、輝かしき成績を残せるのにと思うのですが。でも、この技能、何の役にも立ちません。子供に伝承する必要もありません。ああ。あァ。
 まあ、冗談はさて置き、この世の電化、情報機器化の行き着く先に人間の幸せが待って いるのか、パーフェクトな電力化の先に人間本来の家族間の生活、親子の交流があるとは 思われないのですが、いかがですか?
       句・文・絵(岸田 興次)

俳句「島熊山の自然」第四十三回   蛍池 岸田興次
 
大荒地(おおあれち)野菊咲かぬままでの人生ぞ


 九月十二日(日)も山の路作り。道すがら、キク科の花が咲き出している。そのキク科で皆を悩ませている、ヒメムカシヨモギとオオアレチノギクの良く似通っている為の区分の方法。社ひとみさんの提案で、これはヒメムカシかオオアレチかと悩みながら調べてみる。花で区別ならオオアレチは花は開かないか、あるいは頭状花が少し見える、それに対してヒメムカシは花びらが開いて出ている、この識別の方法です。午後に土田泰子さんの同定で以って決着となりました。島熊山の会ならではの楽しい植物談義のひと時でした。
 それで俳句ですが、一生に一度も花を咲かせる事のない人生も辛い物がありますね。本日は、この本の紹介!そう角田信朗さん。あのテレビの「なまだら」の角田さん、ニ00ニ年後期のNHK朝の連続テレビ小説「まんてん」の天神橋の食堂を営む熱血オヤジ役の、そして今や格闘技の『K―1』のマネージメントの。本の題名は「悔しかったらやってみぃ!!」好きな事をやり続けていれば、様々な人生の可能性が見えてくる。人生を楽しくするヒント満載!愛と涙と感動の爆笑半生記 幻冬舎定価千五百円です。
       句・文・絵(岸田 興次)

俳句「島熊山の自然」第四十二回   蛍池 岸田興次
 
鉈(なた)の背で木杭うちたる木下闇


 七月十一日(日)第三回の山の道造り。本日は、私、第一班の先頭部を担当しました。
枯れた小枝を切り、根笹を刈った後、山の道の簡単な階段造り。横棒を抑える為に、杭を打つ。
━打つと思ったが、ない。ない。ないのは━木槌。田村さんに鉈を借りて背で打つ。少し暗めの雑木林の中でリズミカルな音と共に前日の雨で土も柔らかく、鉈を痛める事もなく打ち込む。何者にも替えられぬひと時でした。
 今回も健康の話題。貝原益軒の『養生訓』は、「珍美の食に対すとも、八九分にてやむ べし」と腹八分目程度に控えることを説いている。珍味,美味は現代の方がずっと多彩で豊富だ。だからこそ、食べすぎて肥満に成らないよう心がける必要がある。 肥満が原因の疾患は多い。肥満と高血圧,高脂血症。糖尿病の組み合わせは「死の四重奏」と呼ぶことがある。と国立長寿医療センター疫学研究部長 下方 浩史先生が言っておられます。こわばら、こわばら、皆さん,気をつけましょう。

俳句「島熊山の自然」第四十一回   蛍池 岸田興次
 
金蘭のあらっあらっまあと蕾あり


 昨年の5月11日(日)に雨の中で若竹きり。雨でも例年これをやらねば、後で竹になってからの伐採が大変と皆で確認。
 そして、その翌年がこの5月9日(日)、みごとな?雨の中での若竹きり。おいおい、今年も雨かと・・・と思う。若竹きり中にサンショウの木を五本、見つけて、嬉しくなる。日光が入ることによりサンショウの実の発芽。好光性だったのかと今になって思う。その後、易パパが、金蘭を三本発見。花も咲いている。ただ、ただ、金蘭の咲く里山の景に感銘を受け無言で眺め続ける。
 話はがらりと変わって食生活の話です。「粗食の進めレシピ集」(東洋経済新聞社)の著者幕内秀夫さんは飽食の現代を「新しい意味での栄養失調時代」と呼び、健康のために十ヶ条を提案する。@ご飯をきちんと食べるA発酵食品を常に食べるBパンの常食をやめるC液体でカロリーをとらないD未精製のご飯を食べるE副食は季節の野菜を食べるF動物性食品は魚介類を中心にG砂糖、油脂の取りすぎに注意Hできる限り安全な食品を選ぶI食事はゆっくりと、よくかんで、との事。

俳句「島熊山の自然」第四十回 蛍池 岸田興次
 
コナラの芽吹きすんぜん山の色


 3月14日の豊島高校東の上の島熊山は、コナラの芽鱗が割れ新芽の白が少しみえた、その茶色と白が混ざった微妙な色合いが山をバックに色と成しています。この次期は、温度が上がれば時々刻々と山の色に変化が現れます。
 今日は、暖かくルリタテハがみなの周りを飛び楽しませてくれました。このルリタテハは、図鑑を引くと成虫で冬を越すとの事。道理で、3月に成虫として飛び回るのも納得です。
 そうそう、処でチョウで思い出したのですが「チョウの目の秘密を解いた」ということで横浜私立大学理学部の蟻川謙太郎助教授(神経行動学)芽赤から紫外線までの色の認識するアゲハチョウのしがくの仕組みを明らかにして色を巡る科学や芸術に貢献した人に贈られるロレアル賞奨励賞を数年前に受賞されました。
ここまで色覚が解明されてた昆虫は他にはないそうです。すごいですね。

俳句「島熊山の自然」第三九回   蛍池 岸田興次
 
島熊山や古木倒木寒に入る


島熊山には、一般に言われる年代、年輪ものの古木は有りません。 もともと標高の低い里山でもあり、炭や薪の原木として適当な太さに成長すれば山から切り出してしまったのでしょう。ひょっとして、緑丘ぐらいの所に大木があったのが住宅の造成で戦後に切ってしまったのか、いずれにせよこの句の古木は島熊山の中での古い木です。
 ところで、評論家の内橋克人と氏と作家の城山三郎氏との対談で「阿寒の女王」と呼ばれた亡き前田光子さんを語っています。前田光子さんが財団法人をつくって原始の森林を守ったことを高く評価しています。
 それは女ひとりのナショナルトラストであって日本のナショナルトラスト運動は知床半島が有名ですが、それ以前の1973年〜1983年の話です。阿寒の大自然、とりわけ自然林を残したことがすばらしいことです。
(釧路新聞 横澤一夫記事より抜粋)

俳句「島熊山の自然」第三八回   蛍池 岸田興次
 びみょうに好きな色あり式部の実

 島熊山の草刈り中に易(寿)さんが、式部の木を見つけられました。まだ、幼木で高さが1m30cm程。葉も紅葉から散り初めかけです。でも、見事に美しい紫の実が、ざっと数えて50個ばかり付いています。おそらく、この式部は近隣の庭木の実からの鳥の仕業でしょう。2年前に三重県の三郷山に晩秋の朝早く山の中でヤブムラサキの実が神秘的な自然色「紫色」を発していて感動したものです。
 さて、今回は、また本の紹介に戻ります。今までは草木自然の話でしたが今月は、この本、養老猛司著書の「バカの壁」です。この夏ベストセラーにもなりました。養老教授は 、40年以上にわたり解剖学者として1200体以上の解剖をされてこられて、一般人の経験としない立場、知識、体験の蓄積から、「身体との付き合い方」「インチキ自然教育」「育てにくい子供」「百勝の強さ」「東大のバカ学生」「松井イチロウ中田」「機能主義と共同体」「方向判断の仕組み」等の事を述べられています。先生に失礼ですが、雑学として、一読の必要がありますよ。
新潮新書¥680円

俳句「島熊山の自然」第三七回 蛍池 岸田興次
 青団栗 はや踏まれたる 山の道

 九月十四日(日)は、生活館祭りの販売工作の作品作り。
山へ作品材料を探しに行って見ると、そこかしこに、コナラのドングリが落ちている。それも、まだ青色のドングリが。島熊山のコナラのドングリは細面の形ではなく、コロコロ太っちょの形の、そうー少しミズナラに良く似た形のドングリです。でも、服部緑地のは細形のコナラドングリです。これは戦後の業者より購入木だからと考えられます。
 話は変わりますが、地域の生活が均一化され、それぞれの土地が持つ風光や個性が失われつつあります。豊中地区でも戦後、数十年間は、豊中の個性がありました。桜井谷地区、熊野田地区、麻田地区の風習があり祭りがありました。岡町の盛大なだんじり祭り、麻田地区の花笠太鼓祭り大事に継続していきたい行事の一つです。

俳句「島熊山の自然」第三六回   蛍池 岸田興次
 夏コスモスやまの仲間となりにけり

 七月十三日(日)自然観察路予定コースの設定のために、新千里西町三丁目方面の山裾からの草原を迂回したのですが、西町方面は府道を挟むように住居が目の前にせまっております。
 従来から、栽培種の進入が見られるところです。今回見つけたのは、夏のコスモス(早咲きコスモス)です。この品種は比較的新しい園芸種です。それが「昔からいる島熊山の仲間です。」という顔をしてうつくしく咲いておりました。
 それでは今回の本の紹介です。
 校長先生の「植物教室」自然あふれる信州の校長先生がやさしく教える植物形態・分類入門です。本の題名は「身近な植物から花名の進化を考える」小林正明著書、東海大学出版会2500円です。花の見方が変わります。花を単に鑑賞するだけではなく、「科学的」に花を見られるようになります。本の材質が良くきれいな写真も豊富なので少し値段が高いですが、勉強になります。

俳句「島熊山の自然」第三十五回   蛍池 岸田興次
 攻めぎわは竹と雑木と花躑躅
 豊島高校の東の草地のうえの竹林の中。新しくこしらえた竹の給水場で遠目に眺めると、雑木林と竹林の境目にピンク色が浮かんでいる。それも五つ、六つ、七つ、と数えられる。そぼ降る小雨の中で緑色と茶色とをバックにまさにピンク色が浮いたように見えるのである。近寄って、そのピンク色を見ると−もちつつじの花である。その花を手にとって見る。花の萼の周りにそのもちのネバネバに蟻と小虫の死骸がくっ付いている。
 花粉を運んでくれる蜂や蝶には蜜を与えるが、蜜のみを持ち去る蟻や小さな虫にはこのネバネバで防御しているのかも知れない。もちつつじの大切な蜜を守る知恵なのか。
又、初冬の山で特にこのもちつつじのみが帰り花を付けている。これも、私が花について思っているたくさんの不思議の内の一つなのだが。四季咲き性の性質があるのかそうして日長や日短の光に関係なく花時の気温のみに敏感に反応しやすい性質なのか。すなわち、それ四季咲きなのか。
 さて、今回の本の紹介は田中肇 著者の「花と昆虫、不思議なだましあい発見記」講談社出版1200円です。花が虫達をだます数々の表技、裏技を著者は発見し、それでもまだ日本の花の生態は、八割が手つかずの不思議の宝庫だそうです。

俳句「島熊山の自然」第三十四回   蛍池 岸田興次
 ひよどりののばす鳴き声冬木群れ
1月12日、総会、新年会が始まる前の午後2時30分に、豊中グリーンヒルの上の島熊山に登る。人工音も無く意外と静か。誰もいない。でもひよどりの声だけがかしましい。枯れ野に腰を下ろして、冬木立を眺める。木の姿を見て、枝を見て、幹を見ているだけで幸せを感じる。こんな得な性格に感謝しつつ、冬木立を見つづけてひよどりの声を聞いておりました。
青木玉さんの「こぼれ種」新潮社(1800円)の本の紹介 
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