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通信201号より
島熊山でオオコノハズクが確認されました(熊代 直生)
通信201号より
新会員の声(山口 圭一)
通信201号より
西丘小学校の子供たちとの観察会(北田 勝章)
通信200号より
活動の足跡をきざむ「雑木林通信」200号を迎えて(易)
通信200号より
「遠く穏やかな森にいる」と感じる島熊山(クリス)
通信196号より
西丘小学校3年生と島熊山屋を歩く(易)
通信196号より
西丘小学校3年生と島熊山屋を歩く(高橋)
通信195号より
オカトラノオ新自生地発見
通信195号より
命つないだコハンミョウ
通信195号より
山崎貞治さん講演会より
通信194号より
老人ホーム横階段の通行止め解除(易 信子)
通信193号より
西丘小学校島熊山観察に参加して(高橋 由美子)
通信192号より
ミドリシジミ見つけた(土田 泰子)
通信189号より
老人ホーム上の地割れ(易 信子)
通信189号より
車にはねられたハクビシン埋葬(森山 真理子)
通信189号より
宮田健さん写真展
通信186号より
北緑丘自衛隊跡地にキツネが!(易 信子)
通信186号より
島熊山にキツネがいたころ(高妻 勲)
通信186号より
ぶんぶんぶん蜂が飛ぶ(社 ひとみ)
通信185より
白神でマダニにかまれる(易 信子)
通信184号より
法面崩落補修工事について(高橋 由美子)
通信181号より
島熊山でキビタキ繁殖(熊代 直生)
通信181号より
豪雨の爪あと(高橋 由美子)
通信178号より
オオセイボウとの再会(土田 泰子)
通信178号より
島熊山周辺ビオトープめぐり(易 信子)
通信178号より
カナダ国立公園で働いて(武田 裕希子)
通信169号より
くらしかんリース作り(谷 ユリ)
通信168号より
くらしかんまつり報告(谷、社)
通信168号より
小学校自然観察会(社 ひとみ)
通信168号より
天王星撮ったど!(土田 泰子)
通信167号より
私の夏休み体験(社 ひとみ)
通信167号より
私の夏休み体験(土田 泰子)
通信167号より
私の夏休み体験(易 信子)
通信166号より
くらしかん行事報告(谷 ユリ)
通信166号より
季節の便り(横山千恵子 易信子)
通信166号より
カナダのたび(河原 登子)
通信165号より
千里川の鳥
(小泉 清)
通信164号より
虹色の煌きに感動
土田 泰子)
通信163号より
くらしかんリース作り報告
(谷 ユリ)
通信162号より
第36回くらしかん祭り2013報告
(谷 ユリ)
通信162号より
小学校観察会感想
(河原、土田、社、杉山、易)
通信161号より
私の夏休み体験
登山初挑戦!「常念岳」に登る
(井坂 英明)
通信161号より
私の夏休み体験
南アルプス白根三山を縦走
(土井 正彦)
通信161号より
私の夏休み体験
東北旅行・岐阜信州旅行
(土田 泰子)
通信160号より
くらしかん「七夕飾り作り」報告
(谷 ユリ)
通信160号より
おたより
(本條 幸子)(横山智恵子)(O)
通信157号より
「クリスマスリース作り」報告
(谷 ユリ)
通信157号より
「おたより」
(河原、石田)
通信157号より
「今年の抱負」
(東、皆光、小泉、塚原、杉山、米虫)
通信156号より
「くらしかん祭」報告
(谷 ユリ)
通信155号より
私の夏休み体験
(社 ひとみ)
通信155号より
私の夏休み体験
(土田 やすこ)
通信150号より
くらしかん祭り報告
(谷 ゆり)
通信145号より
リレー連載第4回
竹間伐の後は今
(土田 明)
通信144号より
くらし館祭り
(社 ひとみ)
通信143号より
葛粉作りを楽しむ
第3回
(土田 明)
通信143号より
夏休み体験

(河原)
通信142号より
竹水を味わおうT
(土田 明)
通信141号より
葛粉作りを楽しむ
葛饅頭を作る
(土田 明)
通信140号より
葛粉作りは大変
葛粉作りにチャレンジ
(土田 明)
通信139号より
次ぎなる10年を見据えて
(社 ひとみ)
通信138号より
2009くらしかん祭り
(社 ひとみ)
通信137号より
私の夏休み体験
(谷 ユリ)
通信137号より
私の夏休み体験
(社 ひとみ)
通信137号より
私の夏休み体験
(土田 泰子)
通信133号より
昔の島熊山を訪ねてW
(土井 正彦)
通信132号より
くらしかん祭り報告
(社 ひとみ)
通信132号より
コモンズの悲劇
(浜口 弘幸)
通信132号より
昔の島熊山を訪ねてV
(土井 正彦)
通信131号より
昔の島熊山を訪ねてU
(土井 正彦)
通信130号より
昔の島熊山を訪ねてT
(土井 正彦)
通信129号より
152回ウォッチング報告
(田村 仁志)
通信129号より
153回ウォッチング報告
(熊代 直生)
通信128号より
剪定枝は土に返そう
(浜口 弘幸)
通信128号より
150回ウォッチング報告
(易 寿史)
通信128号より
151回ウォッチング報告
(浜口 弘幸)
通信126号より
くらしかん生活展
(社 ひとみ)
通信126号より
148回ウォッチング報告
(井谷 弘冶)
通信126号より
ボランティア体験
影山 威夫
通信126号より
147回ウォッチング報告
(易 信子)
通信126号より
ボランティア体験
石井陽子 渡部浩子
通信126号より
蜂刺症 受難の記
(岸田 省吾)
通信126号より
漁業と環境第三回
(浜口 弘幸)
通信125号より
漁業と環境第三回
(浜口 弘幸)
通信125号より
上信越・奥羽 自然と温泉の旅
土井 正彦
通信125号より
私の夏休み
井谷弘治
通信124号より
石原忠一先生をお迎えして
(参加者感想)
通信124H号より
漁業と環境第二回
(浜口 弘幸)

島熊山でオオコノハズクが確認されました   熊代 直生

 千里少年文化館のある付近で鳥類標識調査を再開して1年となりました。20年前には想像もできなかった「普通種だったアオジがいない」という現状に打ちひしがれつつも、変わらず帰還したシロハラやルリビタキに安堵した本年1月7日の調査でしたが、最後に古池付近で捕獲された鳥は、ハトよりも小さなフクロウの仲間、オオコノハズクでした。豊中市では昭和中期に記録されて以来、50年ぶりぐらいの再確認になるかと思われます。夜行性の上に大きな鳴き声を出さないため、確認が非常に難しい鳥で、これまでにも人知れず生息していたのかもしれません。小鳥を餌にすることもあり、実はアオジがいない原因のひとつだったりはしないか、という疑惑もないではないですが、街中の森にもこんな住人がいること、心の隅にとめておきたいものです。

翼下には黒いワンポイント   思慮深げな横顔   もふもふの脚に標識リング

新会員の声   山口 圭一

 9月から参加の山口です。初めての投稿なので、自己紹介的な内容でお許しください。
 7月まで勤めていた設計事務所を退職し、建築関連の仕事を続けながら、環境保全のための活動にも関わりたいと考えていたところに、会のポスターを目にして、手始めにと参加しました。
 福岡の二日市温泉から博多湾まで見渡せる天拝山*の麓で野山を駆け回って育った野生児なので、雑木林の中での活動が楽しくてなりません。
 両親が亡くなり、実家の手入れなどをするうちに、福岡を離れて以来あまり寄り付かなくなった山林が放置竹林状態になっているのを見て、手を入れ始めたのがきっかけで、幼馴染の友人達と周辺の竹林整備や登山道整備などを始めようかと目論んでいるところです。 その幼馴染が地元の区長・副区長をしているので、12月22・23日に正月行事の「ほんげんぎょう**」のための竹の切出しと櫓組みを手伝ってきました。(写真左)
2024年1月7日に行いますが、ぜんざいの提供も再開するそうです。コロナ前に30年ぶりに参加しましたが、その時のほんげんぎょう当日の様子が右の写真です。
 福岡市内でも行っている地区がありますが、豊中市内ではこのような行事は難しいでしょうね。


 お正月の準備といえば、60年頃前の実家では、親戚用を含めた餅つきを暮れの28日に行っていました。早朝から5斗程度の餅をつき、夕方には10+6畳の座敷と延長8間の広縁が小餅・鏡餅・かきもち用の平餅で埋め尽くされていました。餅がつきあがる間は、栗の木の枝で正月用の祝箸を肥後守で削っていました。
 夜はもち米の研ぎ汁で沸かした風呂に入ると肌がすべすべです。
 今でも餅つき大会でもあれば、手伝いたいのですが、福岡の友人によれば、子供会の餅つき大会では「人が触った餅はいや」と言う親が居るらしく、全く何考えているんだろうと思います。秋の芋掘りも時間取られるからやらなくて良いとか、子どもの意見より親の都合が優先しているらしく、すごく寂しい気持ちになります。これも時代の変化でしょうか。 古くても風情がある良いものは残して欲しいと思う今日この頃です。初回投稿にしては、愚痴っぽくなってしまいました。(山口 圭一)

*てんぱいざん。左遷された菅原道真公が自らの無実を訴えるために何度も登った山とされています。
**どんど焼き、左義長とも呼ばれていますが、福岡・佐賀ではこのように呼んでいます。

西丘小学校の子供たちとの観察会  2023年11月2日 北田勝章

 秋らしい天気にも恵まれ、西丘小学校3年生3クラスの元気な子供たちと島熊山のみやこぐさの草原〜観察路を歩きました。今年のテーマは「どんぐりや、秋の実りをみつけよう」。
 私の担当はどんぐりで、帽子(殻斗)の違いによる見分け方、葉っぱの違い、芽や根の出方、どんぐりの赤ちゃん(2年成りのどんぐり)などの話をしました。はたして1クラス30名の小学生にどこまで興味を持って聞いてもらえたかどうか、不安に思うところです。 けれども、途中で拾ったどんぐりを見せて楽しそうに話しかけてくれたり、コムラサキの実をおそるおそる食べてみたり、ジョウログモの小さなオスを探したりして喜ぶ様子を見ると、身近なところにある島熊山の自然に親しんでもらえたのではないかと感じることができました。


 活動の足跡をきざむ「雑木林通信」〜200号を迎えて    易 信子

 1991年3月3日、当会発足後間もなく3月19日に雑木林通信1号が発行されました。それか ら32年。発行は当初は毎月、途中から隔月、そして現在は季刊となっています。200号まで継続できたことは、会員の皆様の日々の活動の賜物だと深く感謝しています。300号を楽しみに、島熊山の生き物たちと付き合って参りましょう。
 「訴える力に」通信最初の一歩
特別養護老人ホーム・グリンヒルが現在の地に建設されるという住民向け説明会の後、数人で発足した当会です。福祉も大切だが豊中の自然遺産を守ることも大切であると、市へ、市議会へ、近隣の住民へ訴える最適な手段が雑木林通信でした。30年以上前ですからパソコンも未だ一般的ではなく、手書きで、イラストも自前で500部以上印刷していました。1号を改めて読み返すと、行間からにじみ出る島熊山への熱い思いが今でも伝わってきます。
 全力編集、「書きたいこと多すぎて」
 1号から170号まで亡夫、易寿史を中心に編集作業にあたりました。当初B4版1枚だった通信は22号からはB5版8頁、60号を過ぎる頃にはB5版12頁に定着し時々は16頁にもなっていました。凝り性の夫は1頁目の歳時記と季節の写真・文に毎号力を注ぎましたが、書きたいことが多すぎて、その分活字のポイントが小さくなり、「字が小さくて読めない」と言われたことも。各月の活動報告や特集記事、俳句、絵などたくさんの会員の皆さんの得意分野も活かしてもらいました。夫の病で2015年5月から一時休刊となりましたが、翌年1月には3人体制で再開できました。
 動植物の変遷も映し出す
 前述の特養ホーム・グリンヒルは半年の運動の結果、設計図を変更して後ろの雑木林を残し、林内の23 本の樹木を移植することで決着をみました。その後、島熊山の動植物をもっと学びたいと毎月自然観察会を行います。毎秋100人近い子どもたちで賑わったどんぐり祭りや、くらしかんまつりで竹細工を売ったりと活動の範囲が広がりました。どんぐり祭りの感想を紙面に寄せてくれた子どもが大きくなり、自然を守る活動に携わっている話を聞くと嬉しいです。
 1999年から開発で少なくなったタヌキ・キツネの餌場を確保しようと密生した竹林を雑木林へ変身させるべく森の手入れ活動を始め、現在に至っています。
 かつては自動車ではねられるのはタヌキやキツネでしたが、近年ハクビシンやアライグマがはねられる報告に変わってきており、島熊山の動植物の歴史も読み取れる通信でもあると言えます。

 「遠く穏やかな森にいる」と感じる島熊山
  クリストファー ロビン

私たちは、アメリカから日本に去年の4月に引っ越しました。アメリカではテキサス州のオースティン市に住んでいました。引っ越しの主な理由は日本の自然でした。日本では、いろいろ自然を楽しむ所が近くにあります。山に登るとか、ハイキングするとか、公園で散歩するとか、全部の物はうちから近くです。
 しかし、アメリカは広いんです。オースティンから、ハイキングのコースがある公園まで2時間ぐらい運転しなければいけないです。そんな公園は普通にぎやかすぎます。日本では、たくさん近所の公園があるけど、アメリカで近所の公園は珍しいです。アメリカの町は大概歩いて行けないから、公園で大きい 駐車場がいります。普通アメリカで近所の公園は芝生と児童遊園の二つが主にあります。私たちが前にいたオースティンで、近所の公園はリトル・ステイシー公園でした。大きさは島熊山と同じぐらいだけど、とても違います。
 数億年前は海の底だったテキサス、公園の川辺で化石探し
 リトル・ステイシー公園は大抵広い芝生です。少し木が(ピーカンナッツの木)、小川もあります。テキサスでは気温が年中とても高いから、植物のためにテキサスの公園は普通池や川などの水域があるんです。水域がない公園はサボテンだけ生えられます。
 数億年前にテキサスは海の底でした。だから、地面の中でたくさん化石と貝殻が見つかります。リトル・ステイシー公園の小川のほとりに石があります。石の表面や石の中に化石と貝があるんです。化石を探すために石を砕く人が時々います。ラッキーだと石の表面に化石を見つけられるかもしれません。
 しかし、島熊山はもっと自然を感じる気持ちです。リトル・ステイシー公園みたいな近所の公園の中でいることは、まだ近所か都市にいる感じがあるんです。でも、島熊山では、遠くて穏やかな森にいる感じです。私たちにとって、こうした散歩が一番大切な宝物なんです。

  秋空の下 西丘小3年生と島熊山を歩く   易 信子

 秋空に恵まれた西丘小学校3 年生の島熊山探検の日。テーマは「秋の実や種、葉をみつけよう」今年はコロナ禍でもひとクラスがまとまって動くことになり、豊寿荘側からは1組2組が、豊島高校側からは3組4組が出発しました。
 どんぐりが大好きな子供たち。コナラの木の下でどんぐりを拾い「どんぐりの芽や根はどこから出てくるだろう」「出てくるのは芽が先? 根が先?」などを一緒に考えます。チカラシバの小穂を下から上へ動かして集めて「栗」を作るのも、代表選手が得意気にやってくれます。虫眼鏡でセイタカアワダチソウやアオツヅラフジの種も覗きました。初体験の子もいてなかなか一筋縄ではいかない。「(セイタカアワダチソウの)中にユリの花のようなものも見えた」など、それぞれの感性で語ってくれます。今年は遊びの要素を出来るだけ取り入れようと「クズの葉ポン」もやり、結果、担任の先生が一番上手でした。3 年ぶりに公開できたオープンランドからの眺望に、箕面から六甲山まで見渡せ、ひと息つきました。習いたての笹笛を吹く子もいて、各クラスともすっかり島熊山の子に変身! いかにも楽しそうで、リードする私たちも幸せいっぱいでした。

 11 4日に至るまで会員の皆さんが観察路の草刈り・整備に汗を流し、指導にあたるメンバーは事前に下見を重ね準備をしました。今年はスズメバチが多く見られ観察路にも出ているので、当日子供たちが遭遇しないか心配もし、そのために児童は全員白帽子に白っぽい服装をお願いした程です。その努力の積み重ねで無事観察会を終えることが出来ました。有難うございました。   (易 信子)

オオカマキリの卵嚢もありました
  秋空の下 西丘小3年生と島熊山を歩く   高橋 由美子

 今年は観察路にスズメバチが居るという事で、スズメバチの天敵で、見るとスズメバチも怖がって逃げていくとされる(実際の効果については不明ですが)オニヤンマの模型を帽子に付けていきました。それを見た子供たちは、「なんでトンボがいるの?」「オニヤンマはスズメバチをやっつけるよ」などと興味を持ってくれましたが、その中で一人の児童が「これは目が離れているからオニヤンマではなくコオニヤンマだ」と指摘。私は「そうなの?」と答えただけでしたが、後で調べてみたところ、たしかにオニヤンマは目がくっつき、コオニヤンマは離れていて、それが両者を見分けるポイントとのこと。コオニヤンマは我が家にある『日本の昆虫』という図鑑にも載っておらず、その存在自体知らなかったので、小さな昆虫博士に脱帽でした。今年の学年は島熊山に入った経験を持ち自然に詳しい児童も多くいて、案内役として参加した私にとっても、得るものの多い観察会となりました。   (橋 由美子)
虫よけのオニヤンマ


     オカトラノオの新自生地発見/奥の保全地でササユリの開花確認   編集 小泉 清

 6月12 日の通路整備作業で嬉しい“発見”が続きました。「基地」から市境尾根に上がる道は、入口から笹に埋もれて難航。でも粘り強く笹を刈り、枝を払っていくと、3年前の豪雨で崩れて復旧した南側斜面に白いオカトラノオの花が…=写真左。
 特養からの観察路わき某所で草刈りをして守ってきた花です。ここで見るのは初め て、陽当たりの良い南斜面なので、先の場所から飛んできて広がった可能性もあります。 道路から見えにくく近づきにくいので、いい自生地になりそうです。
 さらに進むと、ササユリが一輪咲いていました=写真右。約20 年前にササユリが5株あることは確認、囲いをして保全してきましたが、近年開花の確認がありませんでした。3年前見つかった手前の保全地は花が終わっていたので、嬉しい一輪です。囲いの竹柵を建て直す木槌の音も弾みました。ササユリの葉は見た目には笹と区別がつかず、手の触り具合で他の株を探索しました。
     生息環境に危機 命つないだコハンミョウ   土田 泰子

特養から木の階段を上がったところの広場は、コハンミョウの生息地です」。ところがそこに地割れができて、2年あまり通行止めに。人が通らなくなって草が生えると、巣穴を作る裸地が減り、コハンミョウがうまく生息できなくなる恐れがあって、心配していました。

 4月下旬に幅1m程だけは通れるようになり、幼虫の巣穴(直径3〜5mm)は、まだあることを確認しました。幼虫はときどき巣穴の入り口まで顔をだし、地上を歩く虫を捕まえて巣穴に引きずり込んで食べます。
 そして6月20日、今季初めて成虫の姿が撮れました。成虫も生きた昆虫を捕まえて食べます。 コハンミョウにとって、難しい生息環境の中で、何とか命を繋いでくれてよかったです。
     山崎貞治さん講演会より   編集 小泉 清

とよなか市民環境会議アジェンダ21 の自然学習講座「島熊山丘陵の地質・地質図を読む」が7月16 日、中央公民館で開かれました。観察路通行止め解除で指導いただいた山崎貞治・大阪教育大名誉教授に、最新の地学から見た島熊山の長い歩みと現在を解き明かしてもらいました。
 広場の南側斜面陥没の主因にあげたのは神戸層群。神戸西部から北部へかけて連なる古い地層群で、大阪平野ではずっと後にできた大阪層群に覆われています。しかし、島熊山では地殻変動で神戸層群が大きく持ち上がっており、上の大阪層群が浸食され顔をのぞかせている個所も。今回の陥没地はこの神戸層群の露出地に当たります。
「大阪層群がレキ層で安定しているのに対し、神戸層群は粘土層が主体。水が入ると膨張して滑り面ができ、地すべりが起きやすい。特に大雨の後は要警戒です」と山崎さん。「地すべりは滑る方向が決まっているので、手前側がレキ層なら安全。ただ露頭が少なく、どこからどこまでが神戸層群かという特定は難しい」と指摘しました。
 山崎さんが重視するのは地層の堆積物に与える水の流れの速さの影響。「島熊山のレキ層から、300 万年前には淀川なみの大きな蛇行河川が流れていたとわかる」と説明。「現在の自然をたくさん観察すること。そうすれば、古い時代の風景が復元されます」と呼びかけました。
     特別養護老人ホーム横の階段の通行止めが解除されました!   易 信子


 豊中グリーンヒル横の階段を上がった場所にある広場部分では、一昨年に老人ホーム南側の斜面の一部が陥没し大きな亀裂が入ったため通行止めとなり、観察路が通り抜けできない状態でした。そのため会でまず陥没部分の大きさを測定し、次に地学がご専門の山崎貞治先生と豊中生物同好会の先生方と一緒に地質等の調査を行い、その結果を持って豊中市に通行止め解除の要望に行った結果、注意書きの看板と共に内側に新たに立ち入り禁止の柵を立ててもらうことで無事通行可能となりました。道路を隔てた豊島高校東側の観察路は残念ながら立ち入り禁止になってしまいましたが、新緑の美しい季節に南側の島熊山観察路の散策をぜひお楽しみください。
     西丘小学校島熊山観察に参加して   高橋 由美子

 身近な自然に親しむ第一歩 西丘小観察会 11 月1 日(晴 ) 西丘小学校3 年生4 クラスを各クラス2グループに計8 グループ分け、会から7 人が参加して島熊山の観察会を行いました。ジョロウグモの巣の張り方を学んだり、帽子の付いたドングリや、クリのイガを競って集めたりなど、秋晴れの里山を楽しみました。
 すぐ近くにありながら島熊山に入るのは初めての子どもたちも多く、この観察会が身近な自然に親しんでもらえる第一歩になればと思います。
       (高橋 由美子)
     ミドリシジミ見つけた   土田 泰子

 2012年6月10日、雨上がりの森の手入れ活動中に美しい緑の輝きのある翅を広げた姿を見せてくれたミドリシジミ。居るというのは聞いていましたが、実際に見たのはこの時が初めてで、この感動以来、時々ハンノキを探してはいましたがずっと会えていませんでした。もう絶滅したのかな?居ないのかな?と思いながらも5月から6月あたりになるとハンノキを探してはいました。ハンノキはミドリシジミの幼虫の食樹です。

 今年5月31日、ミヤコグサの草原の林縁にあるハンノキで9年ぶりにミドリシジミを見つけました。葉陰にひっそりと止まっている蝶を見つけて「えッ!これミドリシジミじゃない!居たんだ!命を繋いでいたんだ」とじわじわと感動がありました。残念ながら美しい表翅を見せることはなく飛び去り、その後見つけることはできなかったです。それでも居るということが分って、本当に幸せな気持ちになりました。
     陥没クリア・西丘小のみんな待ってるよ   易 信子

7月12日、前日まで降り続いた雨でグリーンヒル後ろの草原が再び同じ箇所で地割れ陥没した。幅、深さは前回と同じ。ただし今回は両端の長さが延び、神戸層群崖へ続く観察路の近くまで亀裂が走っている。市はまた通行禁止とし、復旧のメドは立っていない。
 10月に入り西丘小学校から例年通りの観察会の依頼があった。今年はコロナの影響を考え、40人クラスを半分にして20人ずつの小班編成にして実施したいとのこと。毎年続いてきた西丘小学校と島熊山との繋がりを消したくない、その想いが伝わり、何とか通行禁止下で も観察会をやりたいと市へ 「当日だけでも通行禁止を解いて貰えないか」 問い合わせたがダメとのこと。 それでは陥没地を避けたらどうかと提案すると了解を得た。そして10月11日、新観察路一斉草刈りとなった。今島熊山は西丘小3年生を待っている。
       (易 信子)
     車にはねられたハクビシン埋葬   森山 真理子

10 月21 日の朝6:30 頃に島熊山と西町の間の道路上で、ハクビシンが横たわっていました。車に轢かれてすぐだったようです。車に轢かれてすぐだったようです。近くに住む方が見つけられ、車に潰されないうちにと、ビニール袋とタオルを持ってこられ、たまたま通りかかった私とウォーキング中の男性と一緒に移動させました。
 島熊山に住む狸だと思い込んで、早朝ながら易さんに電話し、いつも集まる広場まで運びました。8:30 に易さん、米虫さん、河原さんが集まって下さり、広場の端のハンノキの根元に埋葬しました。
 害獣といわれるハクビシンですが、「一生懸命生きてきた小さな命は大切だ」と感じた朝でした。
     (森山 真理子)
   豊中の小さな生き物の表情キラリ   宮田健さん写真展

「エコライフカレンダー活動20年の軌道の展示と写真展」が10月4日から21日まで豊中市立環境交流センターで開催、「島熊山」最年長会員の宮田健さん(89)が豊中の小動物の生きざまをとらえた写真80枚が、公開されました=写真。カレンダーはアジェンダ21生活部会が家庭からの地球温暖化ストップをめざし1999年から作成。2008年からは部会長の宮田さんが撮影した身近な自然の中の鳥や昆虫のカラー写真が彩を添えていました。発行は2018年版で終了、今回“卒業展”が行われました。
 撮影地は自宅前の千里川、服部緑地の池など身近な自然。翼を前に半開きした「アオサギの日光浴」などユーモラスな姿、「アオスジアゲハ・ナミアゲハの集団吸水」など珍しい光景もとらえています。「配水場トンボ池調査」に毎回参加し、猛暑対策にガマの葉に逆立ちして止まるショウジョウトンボも撮りました。
 カレンダー掲載以外にも「蛙の相撲」、カワセミ、ジョウピタキなど6種の鳥が魚や虫を捕獲する一瞬をとらえた「採食」などのテーマ写真をはじめ30枚。「カルガモの子育て〜冒険旅行」などストーリー性も大切にしています。
 「この10年でも、出会う鳥や昆虫の種類や数が全体として減ってきているのは心配。自衛隊跡地の開発などで林地が減ったり、河川敷地の実のなる木の伐採が進んだのが原因では…」と身近な自然環境の保全を訴えます。
 「一時腰を痛めていたが、最近良くなってきた」と朝6時から1時間半ほど軽量のデジカメを持って撮影散歩。箕面まで足を延ばし7700歩になる日も。これからも次々意欲作が生まれそうです。
     北緑丘・自衛隊跡地にキツネが!   易 信子

9 月5 日「『緑丘の自衛隊跡地の開発が始まっているが、キツネがいる』ということで相談の電話がありました」と大阪自然環境保全協会から電話を貰った。協会とは当会発足以来28 年の付き合いで色々と協力もお願いしている。詳しいお話を聞き、私自身が市で聞いてきた話も併せて経過をまとめた。
2006.3 自衛隊豊中分屯地を閉鎖
 この間、近畿財務局より豊中市へ購入依頼があるが、取得に至らず。市は環境への配慮のため緑化率を50%に高める地区計画を、売却前に近畿財務局と結ぶ。
2018.2 41 億円で落札(日経ホーム/長谷工、三井不動産)。この間アセスメントや環境保全審の視察、開発に問題ないと市は判断
2019.4 自衛隊跡地入口に看板(別記)
   5 北緑丘団地に住む女性から保全協会へ
「キツネが自衛隊跡地から出入りしているが何とか居場所か無くならないように出来ないか」と依頼
 9/5 易に保全協会から電話。 キツネが棲息しているので協力をして貰えないか
 9/7 現地視察、フェンスの外から(近隣住民、保全協会、易)。既に草地・樹林地の伐採が終わり、残されたのは南側急斜面の樹林地のみ
 9/18 署名活動に入る。要望内容は▽市が事業主に、樹木伐採を止め、自然樹木を使って緑地化を進めるよう指導▽北緑丘地区の自然環境保持、緑化の方針を示す―など。
 9/22 別の近隣住民から保全協会へキツネの動画が送られる
10/10 豊中市都市計画推進部中高層建築調整課へ第一次署名233 名分を届ける。住民説明会の開催と南側樹林地の保全を訴える
10/11 長谷工へ第一次署名を届ける
自衛隊跡地の草地を歩くキツネ。3頭棲んでいる模様だ
  (近隣マンション上層階から撮影)
自衛隊跡地の開発計画
開発面積 32,285 u
老人ホーム16,643 u (地上12F 地下1F 570 戸)
専用住宅14,485 u (地上2F127 戸)
駐車場 80 台 3,240 u
着工予定 2020 年4月
完成予定 2022 年12 月

   棲息できる環境の保全を
 島熊山のキツネは近頃姿を見せないが、その子孫は北緑丘小〜北緑丘団地〜千里川〜自衛隊跡地へと行動範囲を広げていると考えられる。キツネは、豊中の里山の自然では頂点に立つ動物。キツネが棲んでいることは、豊中にまだまだ自然が残っている証で、子どもたちに自然を守る大切さを伝えてくれる。
 夜間、人がいない小中学校や支援学校、千里川、島熊山とその周辺一帯を駆けめぐっているキツネのために、彼らが棲息出来る環境を保全することが大切だと思う。自衛隊跡地に残された急斜面には巣穴がある可能性が大きく、その樹林地を残すことが、そのための第一歩だと考える。
     島熊山にキツネがいた頃   高妻 勲
 キツネの棲息が確認された陸自豊中分屯地跡(×印)とかつて島熊山にあた巣穴@ABの場所 開発前の羽鷹池周辺にも棲息していた
↑巣穴@下縁の筒はフィルムケース(2001年5月)
↑巣穴A1ヶ所に3個の穴を確認
(2001年1月)
 2005 年頃までは、豊中市北部でキツネの目撃情報が結構あり、島熊山での1999 年から2012年までの観察では、旧配水場跡の南側の中国道に面する斜面に多数の巣穴があった。山の上の道からも下の歩道からも見えない巣作りには絶好のエリア。使用中と見られる新しい穴や放棄された古い穴が計11 あった(@、A)。
 2001 年5月には、この近くでじゃれあっている2頭の若いキツネを見た。2002 年6月には、刀根山2丁目の路上で1頭のキツネと出会った。
 会の活動区域では、山の手入れの基地の西側斜面(B)など5地点に巣穴と見られる8穴があった。2007 年5月に子キツネ2頭、9月に成獣1頭の轢死体が、南北エリア間の道路で見つかった。「キツネの横断トンネル」などの対策が会で話し合われたが、そのうちキツネは、見られなくなった。
 キツネの棲息には、アカネズミなど餌となる小動物がいる森や草原が必要で、島熊山に 隣接した2か所に、大規模マンションの建設など宅地開発が進んだ事が大きな要因と思わ れる。      (高妻 勲)
     ぶんぶんぶんハチが飛ぶ♪ なぜか我が家にお引越し   社 ひとみ

 7月23 日、庭のウメの木に、縦50〜60 p、横30 pくらいのミツバチの群生塊=写真=を発見。その周りを飛び交う無数のミツバチと、スズメバチ1〜2頭。これがミツバチが集団でお引越しする分蜂なのか? さあ、どうしよう!
 早速、インターネットで検索する一方で、対処法について、豊中市・公園みどり推進課の方に問い合わせをする。翌朝、真っ白の巣のかけら(15×6cm)が生垣で見つかり、引っ越し途中のお泊りではないと確定。開放的な樹木の枝に巣作りするのはまれとか。我が家をよほど気に入ってくれたのかな?
 易信子さんにもメールで報告すると、巣を見学に来訪。「せっかくだから飼ってみたら?(笑)」
 発見当初は、ミツバチに群がるスズメバチの恐怖にうろたえたが、少し時間がたつと「巣に、蜜を蓄えているかな?」と食いしん坊気質が湧き上がる。
 ただ、大阪府の条例で、ミツバチの巣箱は人家など人の出入りのあるところから20m以上離れていないと、設置許可されないとのこと。飼育は夢物語に。
 一昨年、ミツバチ見学をさせてもらった、西宮の養蜂家「甲山ハニーガーデン」さんのことを思い出し、連絡。結局、ハニーガーデンさんに巣の撤去を依頼し、27 日に来宅いただいた。
  <作業手順>
 一日目 夕方〜日没までの1時間で、巣を作っていた枝を伐り、ハチを持参の45×55cm の巣箱に移す。
 二日目 午前6時、巣箱の経過観察と、巣に入らなかったミツバチの採集。巣箱へ移す。
 三日目 午前5時、巣箱をハニーガーデン敷地へ移動。我が家の庭は、いつもの平穏を取り戻す。
←ミツバチを巣箱に移動。
 白いかけらが巣
 写真撮影 社 幸太郎
 ↓巣のかけら


 さて、待望のハチミツは…。巣のかけらを皿に置くと、ポタッ、ポタッと蜜数滴。なめるとうっすらと甘い。「ミツバチさんありがとう」正真正銘、自然の味に感動。ハニーガーデンさんの説明では、作り立ての巣には、ほとんど蜜はない。身体に蓄えた蜜は巣作りの為に消費するとのこと。
 後日、巣箱の様子を見に、甲山ハニーガーデンカフェを訪ねる。「広いところに移動できて、良かったね」とミツバチに声かけしたら、「自然もいっぱい、天敵(スズメバチ等)もいっぱい」との返事があった。

    分蜂
 ミツバチの巣は、一匹の女王バチと複数の働きバチから成り立つ。一つの巣に新しい女王バチが生まれると、古い女王バチが巣にいる働きバチを連れて集団で引越しをするのが分蜂。ミツバチが巣をつくる場所は樹の穴、屋根裏、床下などの閉鎖空間。開放された場所にいるのは、引越し途中に一時的に留まっているだけで、普通しばらくすると巣づくりに適した場所へ移動する。
     白神でマダニにかまれる   易 信子

 16年ぶりに白神山地を歩いてきた。白神山地が世界遺産に指定されて26年。青森県側からは申請すれば遺産核心地域にも入れるが、秋田県側からは学術調査以外一般の立ち入りは許されていない。今回歩いたのは秋田県側から核心地域ぎりぎりの所にある小岳(1024m)だ。5月下旬の白神山地はまだ雪が残り、林内に入るとブナの若葉が茂り全身が緑に染まりそうだった。道中クマに壊された説明板もあり、地元ガイド氏は要所要所で手を叩いて人が来たことを知らせていた。頂上にたどり着くと眼下には核心地域のブナ林が広がり、遥か遠く岩木山も姿を現し久しぶりの白神の眺めが堪能できた。
 下山中、右膝がチクッとした。「虫に刺された」と思いズボンの上から押しつぶそうとするが固くて潰れないし痛みは治まらない。ジッと固まっていると先を行くガイド氏が見に来てくれた。ズボンをそろそろめくると膝に貼りついたテントウムシ大の焦げ茶色の虫。図鑑で見知ったマダニそっくり。「ダニですね。すぐ取りましょう。ピンセットがあれ ばいいんですが」口器がしっかり私の肉を挟んでいて、これが皮膚内に残らないようガイド氏は革手袋で取ろうとするが痛いしなかなか取れないし、とうとう「手袋を外して素手で取って」と言ってしまう。それでもあっちを引っ張りこっちを引っ張り、とうとう「取れた!」膝には穴が二つ開いていた。リンデロン軟膏を塗り傷テープを貼って貰って無事下山した。早めに処置して貰ったお蔭で、旅行中、傷も腫れ上がらず熱も出なかった。
 帰阪後、皮膚科で診て貰ったのは勿論、それ以後山の作業ではズボンの裾を厳重にゴムバンドで縛っている。      (易 信子)
     法面崩落事故補修工事について   高橋 由美子


 豊島高校正門東隣の島熊山斜面が昨年7月豪雨で崩れてブ ルーシトが掛かった状態になっていましたが、豊中市によって法面修復工事が行われ、3月末に完成しました。会としては、工事に関してできるだけ環境負荷の少ない工法での修復を要望しまたが、最終的には、グラウンドアンカーを埋め込み、ネットを張って斜面の崩落を防ぐ工法となったようです。
 斜面の表面は種子混入ネットで覆われ、種子の発芽によって法面が緑化されるようになっています。この目的には一般には外来種の植物子が使用されるため 、今回は生態系に配慮して日本の在来種子の使用を要望しまたが、業者の手持ちがないとうことで、外来種を含む種子混入ネット(オキンケイギク等の侵略的外来種は含まない )が使用されました。
 反対側の老人ホーム横の広場の割れ目部分もブルーシートが掛けられたまで、老人ホーム横の階段登り口に高いフェンスが設けられて現在も立入禁止となっています。せっかくの貴重な自然観察路ですので、自然に負荷が掛からない方法で、なるべく早く復旧して通れるようになればと思っています。(高橋 由美子)
     島熊山でキビタキの繁殖を確認しました   熊代 直生


 日本に夏鳥として渡来する「キビタキ」は、黒と黄色のコントラストが鮮やかな、美しい小鳥です。一昔前には山地の落葉広葉樹林で繁殖するとされていて、大阪近郊では金剛山あたりまで登って、やっと美しいさえずりを聞くことができました。当時、豊中には春秋の渡りの途中に通過する「旅鳥」だったので、ゴールデンウィーク前後の早朝に島熊山に来ると、渡り途中のキビタキのさえずりが聞こえて、ずいぶん山奥まで来たような幸福感を覚えたものです。ところがこのキビタキ、ここ十数年のうちに、箕面などの低山で繁殖するようになるなど、どんどん繁殖地が低標高化しています。数年前にはお隣の吹田市、万博公園で繁殖が確認され、島熊山でも夏遅くまでさえずりが続くようになっていましたが、巣を作り、子育てをするところまでは確認できていませんでした。
 今年の6月16日、いつもキビタキのさえずりが聞こえていた千里少年文化館のある付近を久しぶりに歩くと、この日はさえずりが聞こえません。いなくなったのかと心配しましたが、かろうじて小声の地鳴きが聞こえ、よく目を凝らすと、薮かげにキビタキの雄を発見。さらによく見ると、口には餌をくわえたままで、うろうろしています。これは「巣に餌を運びたいけど、人間が見てるぞ、どうしたものか?」という状況ですので、どこかに巣があって、雛がいる証拠になります。つまり、ようやく島熊山でもキビタキの繁殖が確認できた!ということなのです。大阪市立自然史博物館の和田さんに問い合わせたところ、豊中市域でも最初の記録になるようです。
 しかし翌週の6月24日、そろそろ雛でも巣立っている頃かと島熊山を訪れると、今度はひたすら、さえずりが聞こえるばかりでした。雛が一人立ちするにはまだ早いはずだし……といぶかっていると、林内には天敵のハシブトガラスがうろうろ。推測ですが、巣立ち雛をカラスに捕食されてしまったのではないかな、と思っています。それでも(か、どうかは本当はわかりませんが)懸命にさえずりから始めるキビタキに、いつか島熊山生まれの雛を無事巣立たせてくれることを祈るばかりです。(熊代直生)
     豪雨の爪痕  高橋 由美子


 7月5日から降り続いて西日本各地に甚大な被害をもたらした豪雨が、8日早朝にようやく止みました。8日は予定通り森の手入れと、昼食会を行うつもりで集合しましたが、豪雨の影響で豊島高校正門横の斜面に崖崩れが発生していることが判明。豊中市による改修作業が行われるうえ、山の中も安全が確認されるまで立ち入り禁止ということで、森の作業は中止、即散会となりました。
 崖崩れの箇所は、1週間にわたって車両通行止めとなり、豊中市によって改修作業が行われました。斜面は工事によって大きく削られ、現在はビニールシートが掛けられた状態となっています。
 米虫さんの報告にもあるように、グリーンヒル側の草原にも大きなひび割れ(幅2メートル、深さ1メートル、長さ20メートル)が生じ、ブルーシートが掛けられています。現在はグリーンヒル横の階段下と、豊中不動尊側の雑木林入口部分に柵が設置され、立ち入り禁止となっていますので、ご注意ください。
   オオセイボウとの再会     土田 泰子

 記事は、こちらをご覧ください。⇒オオセイボウ
   島熊山周辺ビオトープめぐり    易 信子

地域への開放、クサガメ育成など積極的に/循環装置の故障で水枯れや淀みも

 とよなか市民環境会議アジェンダ21 自然部会で8 月30 日、西町〜緑丘地域のビオトープ5施設を見学しました。


 1.最初に訪れたのは「ライフ&シニアハウス千里中央」の池(67 u)=写真左=です。 介護付有科老人ホームの一角に作られたビオトープ池ですが、小さいながら管理が行き届いています。水循環もきちんと作動し、澄んだ水にメダカやマツモムシ、ミナミヌマエビ等が泳いでいます。また地域に開かれ、一般歩道からすぐ入れて誰でも休憩ができます。
 2.次は西丘小学校のビオトープ(885 u)。広い校庭を存分に使って池と小川があり、周辺にはダイオウショウ等の大木や菜園が一まとまりになっています。ただポンプが故障し、川の流れが円滑にいっておらず、淀んでいる箇所もありました。それでもメダカ、ザリガニ等を自由に児童が観察できる良い環境でした。
 3.みくま幼稚園の池(59 u)は限られた空間を更に三つに区切り、真ん中にアヒル、左側にスイレンやスイタクワイ等水生植物が美しく、 右側にはクサガメ(在来種)がいました。 クサガメは、園で卵から育てているそうです。
 4.ローレルスクエア緑丘は段差のある二つの池を含んだビオトープ(219 u)ですが、上の他には水がなく、 辛うじて下の池にハスが咲いていました。水循環の装置は建設当初はありましたが、現在は止まっています。島熊山に隣接している池周辺は、コナラ等の植生を残して設計されたものの、 その後、落ち葉が池に入るからと伐採されています。
 5.最後は当会が管理・調査している緑丘配水場ビオトープ池(143 u)でした。池端へ歩いて行くと、陸にいたトノサマガエルが次々水に飛び込み、ショウジョウトンボ、キイトトンボ、ギンヤンマ等が飛び交っています。1998年に開設したこの池は、周りの環境は変化したものの、毎月の会員による調査や草刈り、ガマ刈りの努力が実り、水面も広く保たれています。
           ◇
 ビオトープ施設を見学していつも考えることは、建設当初の理念を引き継ぐ人材と管理の大切さです。 里山の自然を保全する以上に、人工的な自然には、継続的な人の手が必要だと感じました。
   カナダ国立公園で働いて 「自然を楽しむ」が自然を守る 武田 裕希子

カナディアンロッキーの
山々を巡った5人の仲間
 ご無沙汰しております。6 月からワーキングホリデーでカナダに滞在している武田です。恐縮ですが、ご指名を頂きましたので国立公園滞在中に気付いた事などをお届けしたいと思います。
 8月は計画通り、レイク・ルイーズという観光地としても有名な場所を拠点に、一カ月間ボランティアとして生活しました。 カナディアンロッキーにあるバンフ、ヨーホー、クートネイという三つの国園内で外来種の草抜きやペンキ塗り、リサイクル収集等を行いつつ、様々な国から集まった若手メンバー5人でハイキングやカヌー、サイクリングを楽しんで過ごす時間の方が多い毎日でした。
  ◇神秘の湖 色の秘密は泥
エメラルド色のレイク・ルイーズ
 ちなみに、レイク・ルイーズはエメラルドグリーン色の湖としてよく知られているのですが、その色の秘密は泥だそうです。湖には、背後に迫るビクトリア山上部の氷河が山肌を削る様にして、細かな土の粒子と共に解けて流れ込んでいます。 この湖水中に浮遊している泥が独特の白みを生み出しているそうです。緑や水色については、透明度の高い水は赤系の光を吸収してしまうという光の反射が理由だそうです。白神山地の青池でも色の秘密について同じようなメカニズムが働いているのではないかと、聞いたことを思い出しました。
  ◇誰もが目的や力に合わせて
さて、カナダの国立公園内で強く感じた事は、観光客が大自然を満喫して楽しめる環境を整える事も国立公園の重要な仕事だという事です。ハイキングコースやキャンプ場、カヌー、小さな博物館や土産物屋を併設した観光客をサポートするインフォメーションセンター等が十分に整備されています。今年は建国150 周年ということもあって、シャトルバスが頻繁に出ていてアクセスが良く、国立公園スタッフによるショートツアーなんかも 多くありました。誰もがそれぞれの目的や能力に合わせて楽しめるのです。
国立公園の案内板の設置も
観光客を支える大事な仕事だ
プログラムに参加するまでは、国立公園の仕事は自然を守る事だとイメージしていましたが、それだけではなかったようです。「より多くの人が自然を楽しむ状況を整えることで、自然を愛する人が増え、この自然を維持するために働いたりお金を使ったりすることが当たり前だと考えられる社会を作る」そんな戦略の様な流れを感じました。 また、そうして人が楽しむための場所と、自然を尊重して人の活動は慎む場所との境をはっきりとさせ、何に気を付けてどのように行動しなければならないかを分かり易く教育していました。自然を楽しむ事と、守る事をバランス良く実践していく事の大切さを改めて実感しました。
   自然素材を使って楽しいリース作りをしよう
(くらしかん情報ひろばの催し)

 寒い朝なのに、受付前からこられた方は『「早くいかないと、参加者がいっぱいになる」と、言われたので早く来ました』と言われました。参加者は15人(大人9人、子ども6人)で、豊中市内の方でした。スタッフは4人です。リースの材料はアベマキ、クヌギ、メタセコイヤ、タカサゴユリ、ナンキンハゼ、ヒマラヤスギ、トキワサンザシなどの木の実、草の実などたくさんあり、クズの輪に手際よくとめていきます。小学生の子はしっかりリースを仕上げていきますが、幼児は途中からお母さんにお任せで、広いくらしかんの中をウロウロしています。クズの輪が隠れるぐらいボリュームたっぷりのクリスマスリースにリボンをつけて出来上がり。記念写真を撮るときは笑顔がこぼれます。お互い、メリークリスマス!と言いながら、帰っていきました。
(北桜塚 谷ユリ)
スタッフ:土田泰、西川、谷、社
   くらしかん祭り2014

第37回「<らしかん祭り2014」が10月25日(土)にありました。天気も良く、10時開場とともに、大勢の参加者が入り、[くらしかんぐるっとラリー]のポイントカードを持った子どもたちが15のポイントを駆け足でまわり、30分後には、15ポイントすべて回ってゴールに到着していました。お値打ち品の景品をもらって大喜びです。島熊山はポイントIで、問題は「シオカラトンボは、寒い冬をどのようにしてのり越えているでしょうか?」です。
    @成虫のまま寒さに耐えて越冬。
    Aその年にかえったヤゴのかたちで水中で越冬。
    Bその年に生まれた卵のままで越冬。
 [島熊山の自然素材を使って工作]では、ミニクリスマスリースが人気で、用意したリースの輪は使い切りました。ドングリエ作もしていました。
 [展示販売]来年の干支・竹細工の羊、小枝七編んだ果物皿、トング、どんぐり人形、古木片の部屋飾り、竹の遊具・がりがりとんぼ、竹のお暑、ブローチ、リース、園芸植物など、各人の工夫が生かされた多彩な作品が彩りを添えて並び、その大半が売れました。午後2時過ぎまで自然工作を楽しむ子ども・大人たちもいて、今年も、豊中市民に島熊山の豊かな自然をアピールできたと思っています。
           (北桜塚 谷 ユリ)
 ◆ポイントラリー
 シオカラトンボはポピュラーなトンボと思っていましたが、意外に大人のほうが知らな い人が多かったのには驚きました! さらに、「ヤゴ」となると、もっと知らない人が多かったです!!!  開催中、アジェンダのUさんとヤゴの語源について立ち話。トンボのヤヤコ(也哉子)だから?なんて話も出生したが・・・
 調べてみるとヤンマの子どもだから、〈ヤゴ〉らしいです。ではトンボとヤンマの違いは?・・・。疑問が膨らみます。トンボ科とヤンマ科、イトトンボ科など他にもたくさんあります。その中で、なぜヤンマの子どもがトンボの幼虫の総称になったのでしょうか?
            (緑丘 社ひとみ)
2014年の売上げ
 頒布品  6,000
 冊子『島熊山の自然』 300
 工作参加費  2,250
 合計  8,550
 ◆会計
 今年は昨年に比べて頒布晶の数が半分ぐらいで、展示すると淋しかったのですが、ほぼ売り切れ。売上げは昨年の4分の3と健闘しました。
 準備に携わって下さった皆様、当日お手伝いいただいた皆様、ありがとうございました!
   島熊山に秋の実やたねをさがして
 11月19日(西丘小)20日(少路小)の生徒を探検と発見の観察会に案内

 紅黄葉にお目さまがあたってピカピカまぶしい午前中、西丘小学校3年生の皆さんは 春に続いて2度目、少路小学校4年生の皆さんとは今年初めての島熊山たんけんです。

西丘小学校
  チヂミザサのひっつきむしに大騒ぎ
 11/19 、私の担当クラスは、豊島高校東隣の通称「ミヤコグサの草原」から始まります。今ばメリケンカルカヤの草原"というほうがふさわしいほど、一面に広がっています。 このエリアでは、コナラの根が出ているドングリ探しや、センダンの実 (種子の断面クイズ)、カシノナガキクイムシの説明、チカラシバ遊び、などポイント満載です。しかし、ポイントに行きつく前に「チヂミザサのひっつきむし(種子)」がズボンを占領して、キャーキャー大騒ぎ。初っ端からこんな感じだと、ゴールは泣く子も出るかも?・・・と少々不安になりましたが・・・どんどん進んでいくうちに、子どもたちは自然の環境に慣れてきて、気に掛けるふしがなくなりました。
 グリーンヒル横のフェンスの中、ススキに竹の囲いがしてあるのを見て、「紫色のナンバンギゼルが咲くのですよね?」と、一人の女の子。名前も姿も知っていたのにはびっく りしました。観察ポイント外でしたが、急濾、ナンバンギセルの話をしました。
 六甲山や箕面の山並みが見えるポイントでは、大きく深呼吸。バックやお腹の大きなハラビロカマキリを捕まえて、しばし昆虫観察タイムになりました。
    初めての味にドキドキ
 ヌルデの実に塩がふいているのをちょっとだけなめたり、シャシャンボの黒熟した実を食べたり・・・先頭あたりにいる子は手をひっこめることが多いですが、友だちの反応を 確認してから、食べたくなる子は続出です。ひとたび自分の舌で美味しいとなると、「もっと頂戴!」と要望の声。残念ながら限られたみのりです。間違ったものを食べないよう 注意しながら、先へ進みました。
    「チヂミザサって何科ですか?」
 クロマツ林で最後のまとめをしました。衣服についたひっつきむしの名前を確認します。チヂミザサがほとんどでしたが、チカラシバやメリケンカルカヤが付いている子もいまし た。きよう出てきた植物の名前をノートに書いてもらいましたが、「チヂミザサって何科ですか?」「アレチヌスビトハギは?」の質問が飛び出しました。毎年のように観察を行 っていますが、植物の科の名前を聞かれたのは初めてです。担任の先生に確認しましたが、小学3年生では、科の名前は教科書には出てこないとのことでした。

少路小学校
 翌日は少路小学校4年生5クラスが前半3クラス、後半2クラスに分かれて歩きました。前半は4年1組さんを担当して、クロマツ林からスタート。後半は、ミヤコグサの草原からスタートした5組さんの担当・Eさんの後ろを追いたて役で付いて歩きました。
    「ノートとえんぴつを用意してください」
 Eさんは最初に子どもたちに、ノートとえんぴつを用意するように声がけし、要所要所メモをとることを促していきます。メモしていると「ちょっと待ってください」や「もう一度言ってください」などの言葉はよく聞かれますが、さすが4年生。そういう受け答えは一切なく、迅速に進みます。Eさんのわかりやすい説明も、子どもたちの頭の中にインプットされやすかったのでしょう。
    まずは、木の生い立ちから
 センダンの木のところでは、「もともとこの山には生えていなかった木が、12年前くらいからここで育っています。では、どうやってこの本は生えたのでしょう?」
一人の男の子が手を挙げて「鳥の糞から芽生えた」と答えてくれました。
  「冬期に鳥の食料になるセンダンの実。摘み取って観察するのは班に一個にしましょう。」と提案がある。あらかじめクラスで班分けされ決められていた当番の子が実を取り、果肉をむく役です。混乱もなく、勝手に手をだして怒られる子どももありません。実の大切さも伝わって、このルールに納得できます。種子の形のクイズもしながら、じっくりひとつの木のことを観察することができました。
 このあと、コナラのドングリ、アベマキのドングリ、ヌルデの実や虫こぶ、シャシャンボの実・・・と、センダンでのやりとりのように、ゆっくりと時間をかけて観察していきました。
    情報を詰め込まないと、時間がゆったりと流れていく
 限られた時間で行う観察会は、どうしても盛りだくさんの急ぎ足になりがちです。しかし、今日は大きなテーマに沿いながらも、ポイントをしぼってじっくり観ることができ、同じ時間がそこだけゆっくりと流れているような錯覚を覚えました。きっと、一緒に歩いた5組の皆さんも、同じように感じてくれたと思います。Eリーダーさんの話に一番引き込まれたのは、私だったかもしれません。ありがとうございました。
 今年はコナラのドングリが豊作で、道々にザクザク、ゴロゴロしています。その上を19日は100人、20日は200人の小学生が、行き交いました。ドングリさんたちもさぞ、びっくりしたことでしょう。お騒がせしました〜。ありがとね〜。
                                (緑丘 社ひとみ)
   天王星撮ったど!(2014年10月8日 皆既月食にて)

 10月8日の皆既月食を観察した。新聞に皆既月食の時に月のすぐ近くに天王星があって、普段は見えない天王星が観察できると書いてあったので、それを見てみようと思った。肉眼では無理だが双眼鏡で月の直径の1.5〜2倍くらいの西側に見えるはずとの事だった。ベランダから口径50mmで7倍の星用の双眼鏡で見てみたが、全く見えない。7倍では無理なのか・・・今度は20倍の鳥用スコープで見てみるとそれらしき星が見えた。デジカメで月食を撮影してみた。ベランダからでは、上の階のひさしが邪魔になってもう撮影が無理になったので、外に出て三脚をセットして撮影を試みた。隣の棟の人もご家族で観察していた。盛り上がってるなと嬉しくなった。自宅北側からは角度が良いのかすばらしく月が良く見えた。天王星が写るとは思っていなかったが、シャッタースピード(SS)を何段階か変えて撮ってみた。私のカメラはSS 8秒以上長くできないので、ISO感度を変えてみようと思い立ち、ISO感度を1600にして、SS 1/4秒1/6秒1/10秒と変えて、ズームいっぱいで撮ってみた。また適当に風景を交えたものも撮って家で画像を確認したところ、なんとなんと天王星ISO感度1600、SS 1/4で撮ったものに写っていたのである。
皆既月食は、さほど珍しい現象でもないが、天王星撮影に成功したのがすごくうれしかった。
 皆既月食では、月は赤黒く見えます。これは、地球には大気があるため、太陽光は一部が地球の大気によって屈折し、まわりこみます。赤い光ほど大気によって散乱されにくいため、月は完全に真っ暗にはならず、赤黒く見えるのです。       (北緑丘 土田泰子)
↑20時2分の月(皆既中) 矢印のところに天王星が写っているのですが、縮小した写真では見えません
   私の夏休み体験早朝観蓮会の謎

 7月27曰 滋賀県草津市烏丸半島〜水生植物「みずの森」を訪れました。  滋賀・琵琶湖の烏丸半島は、国内有数のハスの名所です。毎年、7月半ばの週末には、半島行きの臨時バスも増便されて、早朝から観賞の人で賑わいます。千里万博公園の日本庭園ハス池や、鶴見緑地公園・咲くやこの花館などもそうですが、ハスといえば、早朝観蓮がおなじみです。(ただし、烏丸半島は、園内ではないので、24時間観察は可能です)。何故、早朝観蓮をするのでしょう?ハスの花が早い時間から咲くからだろう・・・くらいは漠然と思っていましたが、詳細については知りませんでした。 調べてみると、一般的なハスの開花から散るまでのしくみに由来することがわかりました。
      (以下の写真と説明は「花蓮品種図鑑:大貫茂著」から抜粋)

@開花が始まる   A花がお椀形に開く  B開花している状態  C散り始める
1日目…午前5時頃から開花を始める。 トックリのような形のまま全開せず、
     9時頃から昼前にかけて閉じてしまう。
2目目…午前5時頃から開花し始め、お椀形に開き、9時〜10時に閉じる。
3日目…午前5時頃から開花し、1日中咲いている。(閉じない)
4目目…大半の花が、午前中から散り始める。場合によっては午後から散り始めたり、
     5目目に散ったりするものもある。

 1目目から4日日の開花姿を一同に観賞するためには、朝7時か8時頃までに現地に到着していなければなりません。さらに、その時間にいると、閉じていく様子もあわせて楽しめます。そして、その花が何日目の花か、おおよそ推定できます。
 早朝観蓮会のなぞが解けて、烏丸半島へは早朝に出かけたかといいますと・・・残念ながら諸事情により、9時に到着がやっとでした。 さらに、道の駅で買い物を先にしていたら・・・どんどん遅くなって(言い訳ばかりです)。 どうぞ、皆さん、来年のハス花の季節には、早起きしてお出かけください。まずは、近いところで万博公園をおすすめします。
                       (緑丘 社ひとみ)
   私の夏休み体験至仏山登山

 8月21日〜23日まで、尾瀬へ行ってきました。今回は3回目です。1回目は、2011年の7月でニッコウキスゲの頃に、2回目は、2012年の9月でリンドウが花盛りでした。ということで少しずつ季節を違えたので、新たな発見や出会いがありました。草原で目立つは、サワギキョウの青紫で、リンドウは咲き初め、アザミやヤナギランの花が楽しめました。大阪から尾瀬までは遠くて行くだけで1日かかり、2日目からが観察です。沼山峠から尾瀬沼を回って、尾瀬ヶ原へ、そこで温泉小屋に一泊して、3日目は尾瀬ヶ原を縦断して至仏山に登りました。尾瀬ヶ原では、総苞片が印象的なオゼヌマアザミ、花柄がユニークなチョウジギク、見たかったオゼコウホネに出会えました。池沼に黄色い花が1輪顔を出していて、「オゼコウホネだ!」と行き合わせた人にも「あれオゼコウホネですよ。初めて見ました!」と声掛け合って盛り上がりました。

 なんといっても初体験の至仏山登山で、初めての花や蝶に出会ったのがうれしかったです。至仏山は岩がゴロゴロでものすごく歩きにくく、当日の朝降った雨で、足元を水が流れ、靴をぬらさないように足を置く位置を考え考え、写真を撮るために首から提げているカメラが岩にぶつからないようかばいながら歩いたので、本当に大変で、予定時間を大幅オーバーしてしまいました。正直もう2回は行きたくないというのが、本音なのですが、それでも花や蝶や鳥に出会うと、テンションがググッと上がって夢中になってしまうのです。登りの坂は、一気に尾瀬ヶ原の標高1400m台から至仏山山頂2228mまで約800mを登ります。途中の見晴らしポイントから尾瀬ヶ原が一望できました。
 途中黒っぽい蝶がちらちら飛んでいて、何度目かでやっと止まったところが撮れました。「前日の宿舎で見ていた本に載っていたベニヒカゲだ!」
鳥は足元すぐのところでイワヒバリが餌採りし、逃げる様子もありません。昨年御嶽山で見たホシガラスもいました。
 野草は、白いワレモコウという感じのタカネトウウチソウや、ツリガネニンジンに似たヒメシャジンの青色が印象的でした。
←タカネトウウチソウとヒメシャジン
(北緑丘 土田 泰子)
   私の夏休み体験森林セラピーロードを歩く

 妙高高原は新潟県直江津市から南へ下り、長野市へ向かう上信越自動車道の途中の山問にあります。日本百名山の妙高山(2454m)火打山(2461m)や黒姫山(2053m)に囲まれた広大な山麓で、温泉も豊富です。毎夏、湯治と山登りを兼ねた旅をする我が家ですが、今年は7月30日から8月2目までこの地で過ごしました。
森林セラピーロードとは
 初めて聞いたこの名称。北海道、東北地方などで全国的に展開されていますが、妙高高原では6ヵ所指定されています。森林セラピーとは「森の癒し効果」を利用して、ストレスの解消や心と体の健康を維持・改善していこうという試みです。森林浴を更に一歩進めた取り組みでしょうか。ここではセラピーロード・セラピー基地は平成20年に指定され、温泉と併せて滞在型観光を目指そうとしています。日頃、何かとストレスの多い私にはビックリ!そびえ立つ妙高山や火打山登山も今年は無理なので、のんびり「癒されよう」とセラピーロード歩きにのぞみました。
妙高山麓を横断する自然歩道を歩
 まずはホテルの人がお勧めのセラピーロード「妙高高原自然歩道]を歩くことにしました。赤倉温泉街を抜け、スカイケーブル(山頂駅は妙高山登山口)を横目に見ながら川沿いの道を進み、自然歩道に入ります。標高1000mの高原とはいえ夏の日中は暑く、陽射しも強烈で、セラピーロードを歩こうという人は誰もいず、我々だけの為の道のようです。  入口付近のヒヨドリバナにアサギマダラとヒョウモン柄の蝶が10頭近く群れています。早速夫はカメラを構え、私は川を越えられるかを確かめに先を歩いていると、先程のアサギマダラがヒョウモン柄の蝶を抱えて飛んでいます。「こりゃ何だ?]どこかで食べようと運んでいるにしては変だし…ウームと考えていると追いついた夫曰く「あれはメスグロヒョウモンやな。僕も初めて見たけど、アサギマダラ風なのが雌でヒョウモン柄のが雄」。全く別種の蝶に見えたけど雌と雄だったんだ!とすると抱えて飛んでいたのは交尾の為だったのか、と納得。スタートからワクワクする体験でした。
 セラピーロードは山あり谷ありですが高低差は少なく、程よい道幅で踏み跡があって体にとても優しい!途中キヌガサソウやエンレイソウが実をつけ始め、豊中で希少種のヌスビトハギやキンミズヒキ等がもう秋の花を咲かせています。また間をおいて3ヵ所にクマよけの鐘があり、出会わないようにこれを鳴らしてクマに知らせてから歩きます。涼しい森の中を花や実を楽しみながらゆっくりのんびり歩きました。
 午後はセラピー基地になっているビジターセンターとイモリ池周辺を散策しました。ビジターセンター主催で、オオハンゴンソウが繁殖しすぎて在来種に影響を与えるため、翌日は「オオハンゴンソウを刈る会」が持たれるという。こんな自然豊かな高原でも外来種駆除をしなければいけない現実を知りました。
「夢見平遊歩道を守る会」の活動に出会う
 一回目ですっかりセラピーロードの面白さにはまった我々は翌日もバスで少し遠くのセラピーロードに向かいました。火打山登山口でバスを降り、そこから登るのではなく下っていくコースです。ダム湖(乙見湖)に向けてブナ林を歩きます。ミズナラやブナの大木が奇妙に曲がっていてビックリ。降雪量が多くその重みで木々も苦労しています。ナラ枯れ被害の多いミズナラですが、この地にはまだ来ていないようです。地味ですがズダヤクシュやトチバ二ンジン等の実が見られ、花とはまた違った姿を楽しめました。笹ケ蜂一周歩道のほんの一部を歩いてダム湖に到着しました。
 広いダム湖のそばに小さなテントが…「夢見平遊歩道を守る会]とあります。冊子や図鑑等を並べて男性が一人座っておられるので話を伺うと、これから歩く夢見平の保全活動をされているとのこと。ここを訪れる人は1日で50人もいるかどうか、この場所で日がな待つのは大変だろうな、と守る会の人の熱意に頭が下がりました。
 ダム潮の対岸にある守る会の人達自慢の夢見平へと向かいました。ここもセラピーロードになっています。ハイライトの夢見平湿原はミズバショウ群落で後背の山並みと合わせ美しく、夜眠っても夢にまで見ることから名付けられたとか。時期が遅くミズバショウ の葉だけが大きく伸び、ヤグルマソウの大きな葉と合わせてそのに大さを堪能しました。
途中、何箇所かに20〜30袋ずつチップを入れた袋が置いてあります。説明書きを見ると、「ぬかるんで歩きにくい所はこれで埋めて下さい」と。枯れた木は処理され、草刈りもされていて手が行き届いています。30人程のグループの観察会のガイドをやっておられるところにも出くわしました。多岐にわたる活動のようです。クリンソウやユキザサ、ツクバネソウの実を観察しながら、時々イチヤクソウの花等を見つけるとこれも嬉しい。シラカバ林やズミのトンネルなど変化に富んだコースでした。
←イチヤクソウの花

 宿泊した赤倉温泉の露天風呂は「虫さんや葉っぱさんは温泉が大好きです。やって来たらそっと帰してあげてね」という泣かせる文句が…心まで温まりました。天候不順だったこの夏、4日間とも快晴で心ゆくまで妙高高原でセラピーできました。
(北緑丘  易 信子)
   くらしかん行事報告 島鯵山の竹で七夕飾りをつくる

 7月5目(土)10:00〜H:30「くらしかん」(生活情報ひろば事業)で、「島熊山の竹を使って七夕飾りを作る」イベントがありました。参加者は小学生6人、大人1人で、保護者やサポーターの参加が5人、当会のスタッフ5人(柴田・古田・横山・社・谷)の17人が賑やかに七夕飾りを作りました。 6月27日の「くらしかん登録団体会議」で、くらしかん職員から突然、「FM千里ラジオ局」から7月5日の七夕飾りの作業中に取材に行ってもいいかと、相談がありました。社さんと相談して、受け入れることになりました。当日のキッズレポーターは小学3年生の女子がきて、自分も七夕飾りを体験し、マイクを持って社さんに取材しました。10分ぐらいのインタビューですが、FM千里局のアナウンサーとイヤホンを介して実況放送のやり取りをしていました。レポーターを支えるスタッフの女性も慣れていました。七夕飾りの作業は、最初に古田さんの指導でこより作りに挑戦し、皆さん苦労していました。七夕を飾る網・星・巻貝・輪などが晴れやかに取り付けられ、願い事が書かれた短冊をみると、いつの世にも通じるものがあって、癒されます。
 11:30に終了し、皆さん、青々とした竹に七夕飾りをたくさん付けて持ち帰りました。その時は雨は降っていませんでしたが、あと片付けをし、12:10ごろに外にでると、小雨が降り始めていたので、びっくりです。作業中の晴に感謝して、帰途につきました。
                 (北桜塚:谷 ユリ)
   季節の便り

 5月31日、野畑図書館で、ヒメボタルの生態やゲンジボタル・ヘイケボタルとの違いや、ヒメボタルの最近の様子などのお話かおり、その後、春日町の観察会場に移動してヒメボタルを見に行きました。
 まあ、何ということでしょう、今まで見たことのないはどのヒメボタルの大群。思わず「わぁきれい」と歓声をあげる声があちこちで聞かれました。ヒメボタルを守る会やアジェンダ21の方々の努力の賜物と感謝、感激、ありがとサンという気持ちです。本当にすごくきれいでした。
 一昨年、昨年とツバメが巣を作っても雛が一羽も育だなかったので、とても残念に思っていましたが、今年は無事親ツバメが餌を運んでいるのを見ました。巣立つ日が楽しみです。
………毎日見ていたのですが雛を見ることができませんでした。今年も残念でした。
             (桜の町 横山智恵子)
      ヒヨドリの子育て
 6月27目、隣棟との間の植え込みの木の1本、ユズリハにヒヨドリが巣を作り座っているのを発見しました。この植え込みでは20年前にも子育てを間近に見ています。雛はまだ小さく鳴き声も聞こえません。それから1週間、雨の日は雛に雨がかからないように被さり、しょっちゅう親2羽が交互に餌を運んできます。大きな蛾(アケビコノハのよう)やカナブンのような甲虫などを雛に与えますが、大きすぎてなかなか口に入らず、何度も入れ直しています。15分かけてやっと喉を通ることも…。
 最初は見えなかった雛ですが、大きくなるにつれて頭が見え、ピーピーと鳴き声も大きくなってきました。雛の数も4羽と分かりました。羽もふさふさし、頭にもしっかり毛が生え、伸びなどしているなぁと思っていると7月5日夕方飛び立ちました。2羽ずつに分かれ親がそれぞれについているようでした。
                            (北緑丘 易 信子)
   カナダプリンスエドワード島等へ

 行ってきました。今話題の(NHK朝ドラ[花子とアン」)プリンスエトワード島へ。易信子さんは子供のころ読んだ「赤毛のアン」で夢にまで見たずっと行きたい島だったのです。私は映画を見て「アン」のファンになりました。それぞれ二人の思いを乗せて、成田空港を出発しました。
 トロント空港の入国時では上着を脱がされ、体のタッチ、靴裏のチェックなどアメリカ同様、テロ対策の厳しさを痛感しました。フライト時間の長さ、13時間の時差で、体調が不安だったのですが楽しみが勝っていたのかあまり疲れを感じま廿んてした(鈍かったので後できましたが…)
 ハリファックスで一泊、夕日の早朝散歩は爽やかで、ムクドリに似た鳥にも会えてよかったな〜。まずは世界遺産の町ルーネンバーグヘ。18世紀ビクトリア朝の町並みが残された美しい港町、カラフルな木造建築、宗派の違う3つの教会が並んで立つ場所も見学しました。フェリーにて憧れの地、プリンスエドワード島へ。青い海、青い空の中、船は75分で到着。今日からは、シャーロットタウンのホテルに3日間の連泊なので荷物の移動の必要がなく嬉しい〜。
 翌朝、ホテルを出発しr赤毛のアン]の世界へ☆☆☆ ケンジントン駅舎、グリーングイブルズハウス、物語にも登場する「お化けの森]「樺の道」「輝く湖水」や「赤毛のアン」の作者モンゴメリーの生家を訪れ、お墓にお参りし、親族やアンのモデルに迎えられ甘酸っぱいイチゴ水まで頂きました。昼は川べりのレストランで美味しいロブスター料理に舌鼓を打ち(ロブスター漁が盛んな地です)、満喫の一日でした。
 翌日は19世紀の美しい町並みと自然が残る島東部観光へ。現地ガイドのひろみさんは(日本人でカナダ人と結婚)植物、鳥に詳しい。州の鳥はオスブレイ(日本のミサゴ)、州の花はメイフラワー(さんざし)、ジャガイモはカナダの30%を収穫、菜の花カノーラーオイルは日本に輸出との話でした。5月中旬でタンポポの花が所狭しと咲いていました。「まあ〜きれい〜」の日本人の歓声。このタンポポが、カナダ人には迷惑そのものの存在とか。毎日タンポポ抜きをしている、なぜなら庭を芝生にしている家が多く、タンボポの根が1mこも伸び芝生が駄目になるからとのこと。日本で愛されているタンポボも、所変わればやっかいもののようです。
 家々には垣根もなく、道路にはフェンスがほとんど見られなく、広々とした風景はより広く、人間に優しい私の望んでいた処でした。日頃から日本での囲いの多さに物申したく 「フェンス、塀をしない運動」をしたいぐらいです。自然と共に生きる島の人々、豊かではないけれど心は幸せだと思う。
 帰国してから「赤毛のアン」を読んでいます。村岡花子の翻訳は素晴らしく、翻訳そのままの風景が未だに残っています。当分の間「赤毛のアン」を楽しむ日々が続くことでしょう。
         (北緑丘 河原登子)
   千里川の鳥

 「今なら千里川でいろんな鳥が見られますよ」。高妻さんの話がきっかけで、5月14日にご近所の3人も誘い、ミニ自然観察会を持ってもらいました。
 センダンの薄紫の花が咲く自動車教習所前をスタート。教えてもらうと、コチドリ、セグロセキレイ、イソシギなど意外に多くの種類の鳥がいるんですね。双眼鏡でのぞけば、カワラヒワの黄色い紋、イソシギの肩まで切れ上がった白など特徴が良く分かります。姿は見えなくても、ヨシの間に棲むヨシキリの声が聞こえてきます。
 1.5km下流の勝部では、カルガモの親子が泳いでいました。母ガモと子ガモ9匹。1時間後には1km上流に移っていて、行動範囲は広いようです。生後2週間の子ガモは、母ガモをまねて草の実などを自分で集めていました。ただ、猛禽やヘビなどに狙われ、成鳥になるのはほんの一部。父ガモは卵が孵った後はどこかに行き、父母共同で餌の虫を探しているセグロセキレイとは違うようです。3羽の成鳥が結構速いスピードで空港のほうへ飛んで行きました。立ち姿が美しいアオサギ、コサギ、堰堤の上で羽を干すカワウなど面白いしぐさも見られました。
 魚ではコイやフナのほか、くねくね泳ぐナマズを見かけます。ウナギやボラなど大阪湾からあがってくる魚もいるそうです。河原に甲羅を干すカメが集まっていましたg、大半が顔に赤い筋入りの外来種のミシシッピーアカミミガメ。日本在来種のイシガメ?を1匹見かけただけでした。特定外来動物のヌートリアも水かきで悠々と泳いでいます。
 猪名川合流点よりだいぶ手前、花から実へ移るハリエンジュの淡黄色の穂が垂れ下がる梨高橋で引き返して往復4.5km。2時間半の野外授業でした。川沿いは家で埋まり、水鳥の宝庫・梶池もほとんど埋め立てられていました。一方、大阪空港の騒音対策で設けられた林は繁茂してきて、冬には万博公園からオオタカが飛んでくるとのことでした。
 これからジョギングや散歩の時も、観察眼を養いたいものです。   (玉井町 小泉清)
   虹色の煌きに感動

 2月7日、野畑テニスコートにて、空に虹色の光が見えました。友人のOさんが見つけて、「なんか空に虹みたいな光が見える」と、私もほんとだ!とすごく感激しました。
(写真はOさん撮影)
 これは気象光学現象(大気光学現象)と言うもので、太陽または月の光が、大気中の小さい水滴や氷の結晶(氷晶)によって屈折したり反射したり回折したりする事で見られる様々な現象です。良く知られている虹は、大気中の小さな水滴中で太陽光が屈折反射して起こる気象光学現象で太陽と反対の方向に見られます。また「月や太陽が傘をかぶったら、翌日は雨」などと良く言われる内暈(うちかさ) も気象光学現象の一種です。  今回、私達が見たのは、内暈と幻日上部タンジェントアークといわれるもので、この3種が同時に見られました。上の写真の中央手で隠しているところが太陽で、両端に見える明るい点が幻日、太陽を取り囲む様な円が内暈、内暈の上部に接する虹色の帯(白黒なので良く分からないと思いますがホームページをご覧ください)が上部タンジェントアークです。これらの現象は、上空にごくうすい雲が掛かっている時によく見られます。気をつけて空を見ていれば、そう珍しい現象ではなく、四季を通じて年間数十回見られるそうです。しかしながら、そういう意識で空を見ている人でなければ、なかなか気がつかない珍しい現象です。私はこのような現象がある事は知っていましたが、実際に見たのは初めてだったので、ものすごく嬉しかったです。その原理はなかなか難しくて、興味のある方は、
「空の輝き」と言うサイトに詳しく解説があるので是非そちらを御覧ください。
:太陽高度が低く、夕立等雨が降った後などに良く見られる
内暈:太陽の周り22°離れた位置に一周するように見える円 幻日:太陽高度が低い時に良く見られる。太陽の両側約22°の位置に、虹色ににじむ明るい点として見える。幻日を貫く円弧を幻日環と言い、上の写真にも写っている
タンジェントアーク:内暈の上下に接するように見える虹色の帯
   くらしかん生活情報広場事業
自然素材を使って楽しい
リースつくりをしよう

 2013年12月1日(日)午前10時から11時30分ごろまで、「くらしかん」で今年も リース作りをしました。参加者は大人10人・付き添いの大人1人・子ども4人、スタッ フは、社・谷・土田・柴田・横山。小泉の6人です。島熊山の自然素材としては、ド ングリ(クヌギ・アベマキ・コナラ等)、木の実(クロガネモチ・タンキリマメ・ナ ンキンハゼ・センダン・ピラカンサ・ナンテン等)、葉(ヒイラギ・モミ等)、マツ カサです。
 クズの蔓でリースを作り、そこにドングリやマツカサを付けていこうとしてもコロ リと、落ちてしまいます。目立たないように接着剤をつけたり、針金をうまく取り付 けたり、苦労します。赤い木の実やヒイラギの葉を付け、リボンを巻くと、一気にク リスマスの雰囲気になりました。
(北桜塚  谷 ユリ)
   近隣2小学校に秋の島熊山を案内して

11月1日 少路小学校
◆4年1組(前半)/4年5組(後半)担当  北緑丘 河原登子

 小春日和の中、少路小学校4年生・5クラスに島熊山を案内しました。前半と後半に分けて、後半のクラスは給食があるので特に気を遣いながら歩きました。
 挨拶をして学校を出発。途中の安全に気をつけながら、島熊山のミヤコグサの草原に到着です。4年生にもなると歩くのも速いので助かります。草原は先日、草がきれいに刈られて、残念ながら虫が少ないように思えました。草原に入ると、山際にあるセイタカアワダチソウの黄色い花にモンキチョウが一頭ヒラヒラ飛び、アキアカネも見ることができました。後のグループの時はスズメバチがいて、子供たちが騒がないかと心配しましたが、「何もしなければ大丈夫」と言う生徒もいて一安心♪♪♪。〈センダンの種の形は?〉などのクイズも楽しそうでした。
 今年は例会時の「休憩基地」一帯にコナラのどんぐりが豊富で、根が出たどんぐり探しも全員が見つかり嬉しそう。カワラタケにも興味深そうで、キノコに詳しい子もいました。包帯をしたコナラの木を見て、「どうしたのですか?」と尋ねられた際、社さんが「カシノナガキクイムシが潜入して木を枯らしてしまうので、手当てしているのよ」とやさしく説明すると、子供たちは初めて聞く話のようでした。
 階段を登り、六甲の山並みを眺めながら「ヤッホー」。〈クズの葉ポン〉は穴あき葉をさけ、手の上で叩く。ペチャ、イタッ、ポンとそれなりに努力の音やにぎやかな声が弾けました。観察路では栗を見つけて興奮。身近な食べ物“栗”探しに一生懸命で、静かに鳥の声、葉音などを体感して欲しかったのですが、多人数では無理のようです。尾根筋にはコウヤボウキが美しく咲き、臭いを嗅ぎながら歩きました。最後のポイントはアベマキのドングリの赤ちゃん探し。可愛い今年のどんぐりを子供たちと見ました。服についたひっつきむしは、アレチヌスビトハギ、チヂミザサ、イノコズチの順に多かったです。
 今回サブリーダーとして参加して、子供たちが楽しみ、遊びながら学び、「また来てみよう、もっと山を楽しみたい」と思う子が増えれば嬉しいと思いました。

◆4年1組(前半)/4年5組(後半)担当  北緑丘 土田泰子
 5クラスなので前後半に分けて、私は2組と3組を案内しました。色々盛りだくさんに観察点を考えた割には殆ど出来なくて、やっぱり集まれる広場のあるところ以外のメニューは難しいなと感じました。こちらの声よりも自然の栗や虫に夢中になっている感じで説明もあまり浸透しなかったかなと言う思いがしますが、自然に親しみ普段の学校と違った体験ができた事だけでも良かったかなと思います。皆、栗のイガをひらったり虫を捕まえたり、多いに楽しんでいるようでした。前半の2組は、最後にまとめる時間がなく終わってしまった事がちょっと悔やまれました。後半の3組は、まとめはできましたが、学校へ帰る途中信号で分かれて一部バラバラになってしまったのが、大失敗です。 時間が足りなくて、最後子供達の感想を聞けなかったのが一番残念です。 持って帰った根の出たどんぐりで、ペットボトルの水栽培を楽しんでくれたら良いなと願います。

◆4年1組(前半)/4年5組(後半)担当  緑丘 社ひとみ
 下見の際にたくさんの観察ポイントをあげて、今回のテーマを「秋の実や種をさがそう」に決めた。観察会当日、澄みきった青空を見上げると、私の中では、観察会の半分くらいは、成功した気になっていた。
 センダンの木では種の断面、形あてクイズ、コナラの木の下で根を伸ばしたどんぐりさがし、「カシナガホイホイ」に包まれた木に子どもたちの目が集中する。カシノナガキクイムシが菌を運ぶ話をする。大きなラップフィルムを巻かれた木は苦しくないのかと心配する子もいる。倒木にカワラタケの仲間が生えている。昨年は、このあたりにカニノツメというキノコが生えていたが、今年は見つからない。下見の際に見つかったツチグリ、残念ながら本番には、出会えなかった。
 本日の1番人気は、ドングリではなく、クリだった。最初にクリを拾ったクラスは、後に続く全てのクラスから、羨望のまなざしを注がれることになる。そして、2番はナツハゼの味わい。実の数が限られているので、班に一人が味見することにした。希望者はそれほど多くないだろうとたかをくくっていたが、予想に反して大人気。じゃんけんで負けて、味見できなかった子どもの落胆した様子には心が痛んだ。
 盛りだくさんのメニューを限られた時間内で行うのは大忙しだ。子どもたちの反応を見ながら、どこまでしぼって観察するのがいいのか、時間配分については、反省しきりだった。

11月19日 西丘小学校
◆3年1組担当  緑丘 社ひとみ

 「紙の原料になる木はまだありますか?」「葉っぱを、ポンと鳴らす遊び、またやりたいな〜」観察路に向かう道々、子どもたちから5月のときの思い出を聞いていると、こんな話が飛び出した。植物名は思い出さなくても、印象に残るエピソードや遊んだ記憶は、頭の中にインプットされているようだ。現地に到着すると、その記憶はますます鮮明になっていく。「このあたりでオトシブミを見ました。」あ〜そんなこともあったね。1年に2回観察会を行う意味は深く、同じ体験を一緒に振り返ることができることも楽しい。  今日の味わいは、ヌルデと、シャシャンボの実。ヌルデの実は、見るからに苦手という人には無理強いせずに、食べたい人にだけちょっとなめてもらって、酸味や塩味を感じてもらう。例年、シャシャンボは、「気持ち悪い〜」とか、「まずい〜」という食べず嫌いや、不評の声があがる。ところが、今年は、違っていて「美味しい!ブルーベリーみたい!」近頃の小学生は、ジャムではなく、フレッシュブルーベリーの味を知っているということかしらん?
 急な斜面の観察路を駆け下りる時は、女子も男子もおきまりの奇声をあげて、楽しそう。「走らないでね、おしゃべりはやめてね」と、約束はしたものの、都会育ちの子どもたちにとって、日常生活では味わえない経験だろう。わずかな距離の土道歩き、何か感じるところがあればうれしい。
 アベマキのどんぐりの赤ちゃんや、松ぼっくりの種、服についた「ひっつきむし」を確認して、観察会、終了!出発時には寒そうに震えていた子もいたが、学校に到着したころには、上気した顔が並んでいた。

◆3年3組担当  東豊中 杉山正実
 11月19日、西丘小学校の島熊山観察会に参加し、私は3年3組を担当した。易信子さんが先生役で、私はシンガリを受け持つことになった。春の観察会と同じ子たちだったので、半年前に経験した新緑の雑木林とは違った実りの秋を体感できる観察会である。易さんの説明に一生懸命メモをとる子、異様にキノコに関心を示す子、根が出たドングリを拾って感動する子、林の中を走り回りたい子、いろいろである。〈シャシャンボの実を食べてみよう〉のコーナーでは、初めての経験でもあり、大変好評であった。拾ってきた実や草、昆虫などを易さんのところに持っていき、説明を求める子が多かったのには驚いた。気のせいか、彼らの目がとても輝いているように思えた。
将来、里山を守ってくれる子供たちが自然に触れる機会を持つことはとても大切なことである。今回もまた彼らから元気を頂いた。

◆3年3組担当  北緑丘 易 信子
 「ウエー、これ何〜?」「わ、気持ち悪!」「ウワー」観察会が始まってすぐの子どもたちの発見は…大きなヤマナメクジでした。どれどれとおもむろに掌に秉せて「触ってご覧」と差し出すと、恐る恐る指でつつく子、何度も触る子、「私、触ってない」と後ろの方から手を伸ばす子、クラス全員ヤマナメクジと交信できました。
 竹林人口辺りでどんぐり探しです。「あった−」「穴が間いてるのもある」「芽が出てる」いろいろ見せに来てくれます。芽より根が先に出ること、芽は来年4月頃に出てくることを図で説明した後は、長い根をつけたものや固い殼が割れて中の赤い実が見えるものなど、どんどん見つけるので、持ち帰って鉢で育てて貰うことにしました。
 センダンの木で、杉山さんの“種の形クイズ”の後、葉っぱクイズもやってみました。春の観察会では時間がなくて簡単に話しただけだったので、覚えているかな?と半信半疑で「これは葉が何枚ある?」と聞きました。「15枚!」「20枚!」。もちろん「1枚!」という答もありました。試しに「先生は?」と間いてみると「20枚?」との答(;_;)。複葉のセンダンは「折れる所で葉が1枚」という話を今日はしっかりできました。嬉しかったのはこの後、神戸層群の崖で大盛り上がりでヌルデの実を昧わった後、葉を採って「これは葉が何枚?」と間いたら、即、みんな声をそろえて「1枚!」と答えてくれたこと。この後も木を見る時に葉にも注意して見て貰えるとイイな。
 観察路に入る前「口を閉じて、今度は自分の目と耳で、見たり聞いたりして発見したものを後で教えてね」と呼びかけました。皆が静かになると鳥の声もよく聞こえてきます。いざ、森の中へ。「ほんまの探検みたいやな」子どもたちのワクワク感が伝わってきます。見事、シンとしたまま尾根にたどり着き、それぞれの子が見せてくれたいろいろ…ソヨゴの赤い実、柴栗のイガ、ムラサキシメジ等のキノコ…。子どもたちなりのアンテナを目一杯に張りめぐらせて発見した貴重な宝の数々。「鳥の声がした」「風が葉を揺らした音がした」の声。全員に応えてあげたかったナァ。大きな白い布に発見した物を並べ、クラス全員で見せ合いっこすれば良かった。次の課題です。
[文中の絵は河原さんの自筆によるものです]
   「第36回くらしかん祭り2013」報告

10月26日(土)あさ10時からひる3時まで、「くらしかん祭り」がありました。今年のポイントラリーのクイズ問題は・・・
 Q。各地の里山でナラ、シイ、カシ類の木が枯れる「ナラ枯れ」の被害が拡大しています。今年、島熊山でも見つかりました。さて、この「ナラ枯れ」の原因は何でしょう?
  @気温の上昇や水不足。
  Aカシノナガキクイムシが運んだ病原菌が木の中で増えたこと。
  B工場から出る煙や車の排気ガスなど、汚れた空気。    〜〜〜この3択でした。
正解はAですが、ポイントラリー参加者の正解率は2〜3割でしょうか・・Bの大気汚染という人が多かったようです。三つとも原因?と、いう人もいました。
 頒布品売り上げは8100円で、去年の約2倍です。流木を使ったオブジェ、来年の干支「うま」の置き物、ブローチなど、竹製品以外の物も多かったのが目新しく、売れあげ増に繋がったようです。
 自然工作は去年とほぼ同じの参加費です。この季節にリースを作るのがよかったようで、準備したリースの輪がなくなるほどの参加者でした。赤い実代わりの唐辛子を使ったのも効果的でした。置き物は台用に切った丸い木の台が、殆んどなくなるくらい作られました。
 12時開演のふれあいステージでは、市の若い職員が掛け合い漫才をしたり、登録団体の人たちのマジックなどがとても面白くて、今年も市民に身近な「くらしかん祭り」になったように思いました。     (谷 ユリ)
当日の売り上げ
頒布品売り上げ8100
冊子「島熊山の自然」600
工作参加費1950
合計10650
   登山初挑戦! 「常念岳」に登る
 泳ぎ、もぐり、釣りと、”海人間”を自覚していたのが、近年山に目覚め、「島熊山、山の手入れ」「みのおハイクの会」と、山になじむことが多くなってきたこのごろ。そこへ常念岳登山の誘いを受け、名前も場所も知らないところで不安でしたが、同期のすすめもあり、しぶしぶOKしました。
 服装、リュック、備品、水、食料等のレクチャーを受け、それなりの準備をしました。
 「中高年齢者の無謀な登山の結果が事故につながる」とか、「装備とその品質の重要さ」等の認識はありましたが、今回の山行きで滑落を2件、目の当たりにし、また二日目、登頂をめざして高低差300mのトライの最中、悪天候と体調不良が重なり、途中断念となりました(土井さんは楽々クリア)。しかし十分に達成感を感じて、無事帰ってきました。
 装備の重要さもあらためて実感し、”無謀な中高年”のイメージも本当はそうでなく、ほんのちょっとしたすれ違いや不注意が事故になると感じました。
 ただ、最後にもう一つ。雨具、食料、水等の装備は品質を大切にすることも重要ですが、私自身の教訓は、《山行きは好天に限る》でした。
           (刀根山 井坂英明)
    南アルプス・白根三山を縦走
すばらしい景観や高山植物や野鳥に癒された3日間
 日本中が「世界遺産・富士山」登録で浮かれている今夏、ならばと変哲人は「第二の高峰・白根山」を目指しました。6年ぶりの大型夏休みです。6年前の「早池峰山・岩手山」以来の、また最後の本格登山になるかもしれない夏休みでもありました。
 7月28日、まずは信州・安曇野と白馬に別宅のある友人にお世話になり、7名で北アルプスの「常念岳」登山で足ならしをして、7月30日に南アルプス市に移動、広河原の登山口から2時間半をかけて標高2230mの南アルプス市営「白根御池小屋」まで登りました。南アルプスの天然水が滾々と湧き出ていて、水が豊富にあるいい山小屋でした(トイレも天然水の水洗で?)。「白根連山の北岳・間ノ岳・農鳥岳」は総称して白峰三山と呼ばれており、高山植物の宝庫です(残念ながら私は花には詳しくないので説明できませんが、キタダケソウやミヤマハナシノブが有名とか)。翌日からの期待と興奮による不眠を予防すべく、小屋では十分にお酒をいただいて8時に就寝 しました。
7/31 日本第2の高峰「北岳」に登る 目をみはった360度の眺望
 一日目の翌朝は6時前に出発し、しばらく草原状の急斜面を登る。両側には黄・薄紫・白などの高山植物が溢れていました。ダケカンバの樹林帯を過ぎ、ハイマツがあらわれると眺望が良くなり、北岳の吊尾根が姿をあらわしました。更に登ると標高2890mの稜線に到着、そこには素晴らしい眺めが待っていました。風は強いがお天気がよくて、正面右手の鳳凰三山から反時計方向に甲斐駒ケ岳(その後方には八ヶ岳)・仙丈ケ岳(その後方には槍・穂高などの北アルプスから乗鞍岳、木曾駒ケ岳などの中央アルプスと御嶽山)・さらにはめざす北岳・雲から頭を突き出した我が国最高峰の富士山までが一望です。そこから稜線を南へとり、可憐な花の咲く岩場を登り、ベンチの横でイワヒバリが遊んでいる標高3000mの肩の小屋を過ぎると、3193mの山頂はもうすぐです。北岳山頂からの眺望は第二の高峰の名に恥じない、360°回れば中部の山岳がほとんど一気に臨めるものでした。北岳を後にして岩峰を巻きながらいったん下り、北岳山荘前の稜線上で昼食をとり次の峰へ向かう。標高3055mの中白峰から振り返った北岳は、やはり第二の高峰らしく雄雄しい姿を見せていました。ハイマツの際に動くものを見つけました。ライチョウの親子でした。近寄っても逃げることなく親鳥はヒナを追っかけて歩いています。そんな光景をしばらく楽しんで、更に先へ進むと標高3189mの間ノ岳山頂に着きました。精悍な北岳に比べると母性を感じさせるゆったりとした山容です。3時頃になると北東の方から少しガスが出てきて、急いで標高2800mの農鳥小屋へと下りました。稜線上に建つ小屋は、約半世紀前に登山をした時の石室のような質素な山小屋でした。この日も十分にお酒をいただくとすぐに眠りにつきました。
8/1 小雨けぶる中 エーデルワイスの群生浮かびくる  雲上に頭覗いた富士にも再会
 二日目、カレンダーが8月1日に変わった頃から天候は雨になりました。朝食を済ませて天気が好転するかどうかしばらく様子を見て、少し小降りになった5時40分に小屋を出発、標高3051mの西農鳥岳をめざします。途中で西からの横風が強くなり景色も見えない中、岩礫の急登と岩峰が続く道を安全第一で進み西農鳥岳山頂に到着、標識だけを確認してノンストップで次峰へ向かいます。岩峰の巻き道に加えて左が絶壁、右が急な沢という難所を数箇所過ぎて農鳥岳へのなだらかな登りに入ると、あとは難所はありません。そう思って気持ちに余裕ができたとたん、急に雨の中に咲く高山植物が目に入りました。エーデルワイスの群生です。7時30分、標高3026mの農鳥岳に登頂し白峰三山縦走を達成しました。岩峰険しい西農鳥岳、穏やかな農鳥岳の上にくっきりと見えるはずだった富士山、もっとゆっくり楽しめるはずの高山植物の群生地など、天候がよければどんなにすばらしいことか、残念ながら想像だけに終わりました。農鳥岳山頂東側は風が通らないので、そこで少し休憩してから下山を開始、8時ちょうどに標高2830mの稜線上の大門沢下降点分岐を通過し、沢に下りると風は弱まりました。あとはダケカンバとシラビソの樹林帯をひたすら下り、2時間後に滝のような急流の西枯沢(およそ標高1900m)に着いたところで、正面に頭だけ覗かせた富士山と再会しました。途中大門沢の山小屋で昼食をとっているうちに雨も上がり、2時50分に奈良田の里に着きました。温泉で汗を流して帰路に着きましたが、奈良田の湯は古代の孝謙天皇ゆかりの温泉とのことで「女帝の湯」という名前がついています。奈良田という地名も天皇が来られた奈良から来ているのかもしれません。身延線の下部温泉駅で缶ビールを買い、静岡に出てさらに一杯飲んで、カレーウドンを食べて阪急の夜行バスに乗りこみ、すばらしい景観と珍しい高山植物や蝶や鳥に癒された私の夏休みは終わりました。
            (上野西 土井正彦)
   〜東北旅行〜月山に登って

 6月30日〜7月始めに東北地方(宮城、山形、秋田方面)へ行きました。6月30日は栗駒高原、7月2日は鳥海山の竜ヶ原湿原、7月3日は月山に登りました。月山は8合目くらいまで車でいけるので、頂上(1984m)までは、500mほどの標高差で2時間半ほどで登れます。8合目には弥陀ヶ原と言う湿原があり、様々な高山植物が楽しめます。また頂上までの登山道には珍しい高山植物があって花の100名山に数えられています。お天気があまり良くなくて、途中後半は冷たい横殴りの雨と風で、すべる雪渓の上を通らなければならなかったり、初体験の恐怖を味わいました。それでも前半は、雨も上がって、高山植物を観察する事ができ、色々な意味で感動の登山でした。,
 なんと言ってもこの旅行で、初めて見る植物に出合えたのがとても嬉しかったです。栗駒高原ではヒナザクラという、東北地方にしかない可憐なサクラソウ科の花を見る事ができました。鳥海山の竜ヶ原湿原では、ノウゴウイチゴの花と実を見る事ができました。月山では、キバナノコマノツメ、ヒメイチゲ、ミヤマウスユキソウ、ミヤマシオガマ、そしてシラネアオイの花が登山道の脇に何株も咲いていたのに感動しました。シラネアオイの花は、野草としては大きくて、うす紫の花が5〜6輪も咲いていると、こんな美しい野草があるのかしらと、わくわく、何枚も写真をとってしまいました。4日に行った、山形県の幻想の森は、株立ちし、湾曲している杉の古木が林立する森で、太古の森のような不思議な気持ちになるすばらしいところでした。
←ヒナザクラの花

シラネアオイ               ノウゴウイチゴの花と実
 旅から帰って、見た花や虫の名前を調べる作業が大変なのですが、名前がわかった時の喜びはまた最高でした。

〜岐阜・信州旅行〜
 7月31日〜8月3日まで岐阜県の天生湿原、穂高、乗鞍、御嶽山を巡りました。初めて行った天生湿原は、花の時期は終わっていて訪れる人も殆どなく、少し寂しかったのですが、現地のレンジャーの方が、「オニノヤガラが咲いているよ」と教えてくださり、一番良い状態での花の様子を観察できました。シラヒゲソウの花も綺麗な状態でも咲いていました。半月〜一月ほど早ければ、あんな花もこんな花も咲いていただろうなと想像めぐらしていました。2日目は、新穂高ロープーウェイで展望台まで行ったのですが、生憎の天気で見晴らしはさっぱり、しばらくお茶など飲んでのんびりしているうちに雲も切れて西穂高を見る事ができました。また初見のエルタテハが、お茶を飲んでる横で何度も止まって、じっくり見る事ができました。その後、平湯大滝に行きました。落差64m、幅約6m、「日本の滝百選」に選ばれている名瀑です。轟々と流れ落ちる水が、白いしぶきを上げて大迫力でした。ここでもセンジュガンピ(写真円内)と言う初見の花に出会いました。3日目は、畳平から剣ヶ峰に上りました。剣が峰登山はこれで3回目ですが、一回目は風が強くて天気も良くなく飛ばされそうになった思い出、2回目は天気は最高でしたが前日痛めた脚が痛くて大変だった思い出があります。3度目の正直と行きたかったのですが、今回登山自体は快調でしたが、生憎曇っていて、展望は望めなかったのが残念でした。それでもイワヒバリの囀りを聞く事ができたのが嬉しかったです。畳平は、今年は花が多く、クロユリやモミジカラマツやコバイケイソウ、アオノツガザクラの花が花盛りでした。シナノヒメクワガタやシラタマノキ等、初見の花も見つけました。4日目は、御嶽山の登り口である田の原を散策しました。ここで大口径の凄いレンズのカメラを並べたバーダー(野鳥を撮る人)さんが居たので、「何を狙っておられるんですか?」と訪ねると、「ホシガラス」との事。しばらく一緒に待っていると、直ぐ目の前にホシガラスがとまりました。他にもバーダーさんがたくさん居て、あちらでもこちらでもホシガラスを撮っていました。どうやらここは、ホシガラスの有名なポイントらしいです。ホシガラスは、ハイマツの実が好きで高山にしか居ないカラスの仲間で、全身に白い斑点がある鳥です。期せずして初めての野鳥に会えて、写真も撮る事ができ、最高の思い出になりました。
 今回の旅行で観察した植物は99種、昆虫は12種、野鳥は2種でした。
        (北緑丘  土田 泰子)
   7月28日「くらしかん 島熊山の竹を使って七夕飾り作り」の報告報告

 7月28目 (土) 10時〜11時30分まで、「くらしかん」の生活情報ひろば事業「七夕飾り作り」が、ありました。前日まで天気予報が不安定でしたので、雨の中の竹笹取りが心配でしたが、晴れました。島熊山の竹笹は青々光っていました。毎年、10人前後の参加者はいるのですが、今年は初めての参加者2組・小学3年と4年の男女1名と保護者でした。豊中市の広報を見て参加してくれました。スタッフは4人でしたが、楽しくアドバイスが出来ていました。
 大人は飾りをつるすコヨリ作りをしますが、難しいです。途中から折れたり、棒にならずに三角錐状に広がります。子どもたちは、七夕飾りのアミやマキガイに夢中です。短冊にも真剣に願い事を書いています。手作りは時間がかかります。いつの間にか終了時間です。七夕飾りを手に持って家まで帰る時の華やかさを想像しながら、お別れです。アンケートに「とても楽しかったです」と、書いてくれていたので、疲れも吹っ飛びました。                    (北桜塚 谷 ユリ)
 おたより

           ホタルの季節がやって来た
 箕面粟生間谷の勝尾寺川上流に、毎年6月の梅雨のころに観賞することができます。ホタルの大きさが少し小さいので「ヘイケボタルかな」と言われますがゲンジボタルです。
 ホタルの幼虫は9ヶ月間土の中で育ち、翌年の3月下旬から4月上旬にかけて陸に上がります。その後、土の中でさなぎになります。ホタルのよく見られる時期は一般に初夏と言われています。川の水の温度と関係します。風がなくて蒸し暑い日、曇っていて、月明かりのない暗い夜などに見られるらしいです。ホタルは雄、雌ともに発光します。雄のホタルは、雌のホタルを誘い、雄は雌を探します。光りはホタルの求愛行動なのです。
 日が暮れて暗くなりはじめると、、あちらからこちらからと人が集まります。そして「光った」とか「ホタルガとんだ」とか大人も子どもも歓声か上がります。いつ見ても良い光景です。いつまでもこの自然が壊される事がないようにと毎年ホタルを見ながら願っています。来年は皆さんも箕面粟生間谷にホタルを観賞に来てください。ホタルも待っています。            (箕面市  本條 幸子)
 毎年、今の季節になると、セミの鳴き声でおこされるのですが、今年は全く聞えません。よそではたくさん鳴いているのにどうしたのでしょう。
            (桜の町 横山智恵子)
 6月17日、春日町2丁目バス停の向かい側「春日の里」事務所の入口にツバメの巣を見かけました。ヒナは大きくなっていました。
            (北緑丘 O)
 12月2日「自然素材を使って楽しいリース作りをしよう」報告

 11月の末、突然くらしかんから「テレビ局がリース作りの様子を取材したいと申し込んできました」と連絡がありました。ケーブルテレビJ:COMで、11チャンネルで豊中市の広報番組・かたらいプラザに各学校や市民グルーブなどの活動を1週間単位で放映しているそうです。社さんや易さんjこ相談し、島熊山のことを知ってもらういい機会だからということで取材を受けることにしました。参加者はそんなこと知りませんので、当日「急にテレビ局の取材が入ったので、テレビに映りたくない方は後ろから撮影してもらうようにします」と伝え、了解してもらいました。参加者は子ども7人、大人6人、スタッフ6 人です。
 作業が始まると、リースにつけるナンキンハゼの白い実やナンテン・ドングリ・ヒイラ ギの葉などの雑木林の宝物にどんどん手が伸びます。テレビ局の人はリースを作った満足 げな子どもや親にカメラを向けていました。
 さて1時間30分程かかったリース作りもテレビに編集されると1分30秒程でした。 豊中市民の皆様に島熊山の宝の山を紹介できたたでしょうか? (北桜塚 谷 ユリ)
   おたより

 クリスマスに石垣島に行きました。可愛い鳥がたくさんいました。ちょっと小振りで、目がまん丸で愛くるしいです。人懐こく「おいで]と言うと5m程離れてついて来ます。噂によると、カバンのチャックを開けて食べ物が入ってないか探すそうです。
 こちらでは珍重がってよく見かける琉球朝顔も山のあちこちに咲いていました。ヒカン桜も咲き始めていました。海では若い人が泳いでいました。日本は広いです。
             (宮山町石田正子)
   日頃もくもくと作業されている方々6人に
なかば無理矢理、今年の会の活動への抱負をうかがった

 新年おめでとうございます。
 年月が過ぎるのも年々早く感じられ、体力が衰えていくようです。昨年の春頃までは良く歩いていた尾根道歩きを、また再開したいと思います。今年も皆様と一緒に、楽しく活動日に参加したいと思います。宜しく御願い致します。
         (西緑丘‥東 正明)
 整備された「島熊山の雑木林」の自然を皆さんに解ってもらい、多くの人たちが喜んで来られるようになったら。またボランティアヘの参加者が増えていくようになれば、と思っています。
          (西緑丘‥皆光顕明)
 丹波篠山の山猿、いえ、山育ちなのか、ずっと都会志向だった私。でも、だんなの転勤で海の近くに住んだり、家族で山登りを楽しんだり…年を重ねるにつれ、緑の木々にホッとするようになりました。街の中にある島熊山の貴重な雑木林の自然。掃除や若竹刈り?!、ツルかご作りなど、私のできることで守っていきたいです。それと、せっかく教えてもらった草木の名前を一つずつでも頭に定着させたいです。
        (玉井町:小泉昌子)
 「島熊山の雑木林を守る会」の諸活動への私個人の抱負
 私はこの会に入会して4年近くになります。実際の活動の中では、色々と先輩方のご指導を受けながら@観察路の整備 A竹間伐 Bササ刈り・クズ刈り C山周辺清掃 D甲虫のベッド作り等の作業をしてきました。そして、その一方では作業中にも、かなり年数の経った樹木が立ち枯れていたり、倒壊していたり、安全の為に切り倒されているのを余りにも数多く目撃して来ました。そして、観察路の整備で山に入りやすくなれぱなったで、野生の動植物が影響を受け、生態系が影響されます。
私の中では、本当に里山として再生しているという実感がまだ少なくて、今年こそは是非何らかの予兆を実感として確かめたいと思っています。
 今年度も一年を通して、健康に留意して、出来るだけ多く参加して、里山再生の為に間伐やササ刈り、観察路の整備作業をしなからも、野生の動植物の為の環境整備も心掛けて行きたいと想っています。その為に「モニ1000調査」にも参加しようと考えています。  これからもよろしくご指導下さい。
       (東豊中‥塚原孝夫)
 昨年のことである。この会に参加してまる3年、作業にも慣れ少し油断していたのだろう。本の枝で目を突いてしまった。メガネを外して作業をしていたためである。  ボランティア活動では自主性が重んじられる。しかし折角の活動も安全性を損なっては、かえってまわりの人たちに迷惑をかける。そこで今年は安全作業に徹することにしたい。道具の扱い方、安全な服装、夏場の水分補給などなど、基本に戻って災害ゼロを目指したい。
         (東豊中‥杉山正実)
 抱負というよりも日頃考えていることです。
 島熊山一帯が、昔、人の生活と密接に関わった里山だったということを知っている人は 少ないでしょう。私もボランテイアに参加するまでは知りませんでした。近隣の人達に、 もっと島熊山と雑木林に関心を持ち、馴染んでもらえたらと思います。そのため草原ヽ林 縁辺りまで自由に立ち入りを認め、身近に自:然を感じて欲しいと思います。勿論、マナーは守ってもらいます。親子で自然に触れ合うことで、将来、自然や動植物に関心を持った子供達が育ってくると思います。
           (北緑丘:米虫一男)
「くらしかん祭」報告ヤダケの蛇に16組が腕ふるう
豊富な頒布品も上々の人気


ポントラリークイズで答えを考える親子。せいかいしたかな?
 2012年10月27日(土)10時から15時まで「くらしかん祭り」がありました。 10時開始から、どど〜と、お客さんが入ります。人気のポイントラリーは15ポイントを回りますが、全部回った人達が10時30分を過ぎたあたりからゴールに到着です。全部回ると景品が2つもらえます。きれいなバッグやしやれたハンカチ、来年のカレンダーや洗剤が用意されていて、12時ごろには景品も少なくなっています。島熊山の雑木林を守る会で出した問六題は「島熊山で見られない昆虫はな〜に?@カブトムシ Aミヤマクワガタ Bタマレ ムシ」でした。皆さんの答は何かな?
 島熊山の会のブースは3Fのイベントホールです。ヤダケを使った来年の干支「竹ノ のヘビ」工作には16組が参加。物品販売ではドングリを使ったマグネット、クズのツルかご、カスタネット、竹の箸、枝輪切りのコマ、ヤダケの鍋敷き、一輪挿し、竹製湯のみ、ヤダケの椅子型眼鏡置き、竹の皮やヒメコウゾの樹皮で編んだコースター等々、種類豊富でそれぞれに個性があり、工夫が凝らされていました。
 12時からふれあいステージが始まり、フレンドリーアンサンブルの手話付コーラスの時には、豊中市長の浅利さんも来られて歌をロずさんでいました。
 くらしかんには登録団体が11あり、各グループの出展、販売、ポイントラリークイズなど、豊中市のエコなくらしへ気合の入った取り祖みを紹介されていました。
 なお当日の会計は、〈竹工作参加費〉¥1,800〈頒布品売上げ〉¥4,350 でした。 (桜塚 谷 ユリ)

兄弟かな?ヘビの見本を前にして、ヤダケを切ろうと頑張っている

展示された頒布品のごく一部。どの品も創意工夫が凝らされていて種類も豊富だった
私の夏休み体験   秋草「オミナエシ」に集う「アオスジハナバチ」

 8月中旬、箕面の山野草店から、オミナエシの鉢を買ってきました。背丈は、150pほどで、茎の先端が細かく分枝して黄色い花が多数ついています。方言名アワバナは、このつぼみを粟粒に見立てて名付けられたようです。(湯浅浩史:植物ごよみ)
 さて、この花が、我が家にやってきて2〜3日たったころ、今まで見たこともないきれいな青い筋模様のハチが、ここに集まるようになりました。図鑑で調べると、アオスジハナバチとわかりました。ハチは風にのって運ばれてくる匂いで、花を感知するといわれます。どれどれと、花に鼻を近づけてみましたが、何も感じません。花を摘んで、指でつぶすと、ギンナンに似た香りがかすかにしました。枝を切ると、もっと強い異臭が漂います。この匂いこそが、オミナエシ特有のもので、生け花にすると、花瓶の水が臭くなります。ここまでして、やっと人は匂いを認識します。
 あれから一ヶ月、花は今も咲き続けていますが、アオスジハナバチの姿は、どこにもありません。結局、このハチの訪問は、初めの1週間足らずの出来事でした。


「コジャノメ」飛来

 帰省先の島根の実家で、どこから入ってきたのか居間にいた中型のチョウ。時々、仰向けの状態で、天井板に脚部をかけて休んでいます。動きはゆったりしていて、じっとしている時間も長かったので、弱っていたのでしょうか?チョウには申し訳ないですが、お陰で、眼状紋が、大きくくっきりしているところや白帯びの様子などを、じっくり観察できました。フィールドガイド日本のチョウで調べると、「コジャノメ」で、夏型は、眼状紋がより目立つとあります。雑木林の管理放棄によってササが繁茂するなど環境が悪化し、減少している場所も多いとのことでした。後日、易 寿史さんに伺ったところ、島熊山でも見られるとのことでした。   (緑丘 社 ひとみ)
私の夏休み体験  高山蝶と高山植物に出会う旅

 8月1日〜8月4日まで、岐阜県から長野県方面へ行きました。夫が元ワンゲルで、そのOB会に参加したので、一応山登りがメインです。ハイキング程度なら大丈夫ですが登山となるとちょっと・・と心配でしたが、なんとか無事帰ってきました。8月2日は、上高地(標高1500m程)から焼岳(標高2455m)に登りました。といっても頂上までではなくて焼岳小屋(標高2070m)まで行って戻ってきただけなので高低差は500mくらいです。でも途中には斜度が80°程の梯子段が何箇所もあって怖かったです。
3日は、乗鞍岳の畳平(標高2702m)までバスで行きました。畳平は、車で行ける日本でもっとも標高の高いところです。そこから剣ヶ峰(3026m)へ登りました。距離はそうたいした事ないのですが、石ころゴロゴロで歩きにくいです。焼岳の時に脚をちょっと痛めてしまったので、痛い痛いと言いながらゆっくりゆっくり登りました。実は昨年も登ったのですが、この時は天気が悪くガスっていて景色は何も見えなかったのです。今年は晴天に恵まれ、素晴らしい青空でした。360°のパノラマが見られました。4日は乗鞍高原を散策して帰ってきました。そしてこの4日間で、高山でなければ見られない植物、野鳥、昆虫に出会いました。これが私にとっては、何よりの収穫で、わくわく体験でした。まず高山蝶です。焼岳ではクモマベニヒカゲやジョウザンヒトリと言う凄いデザインの蛾に会いました。畳平では、クジャクチョウやコヒオドシ、乗り鞍高原では、オオミスジ、エルタテハに会いました。 クジャクチョウ以外は全て初見でした。

           クモマベニヒカゲ            ジョウザンヒトリ

 剣ヶ峰登山の途中では、イワヒバリという鳥に会いました。昨年行った時にはライチョウに出会い、今度はイワヒバリ、高山ならではの野鳥です。イワヒバリは人を恐れず、すぐ人の目の前で餌をついばんでいました。地味な鳥で、大きさはムクドリくらいです。
イワヒバリ→

ウサギギクで吸蜜するコヒオドシ

イワギキョウの花

 畳平では、様々な高山植物に出会いました。かの有名なコマクサも丁度満開。まるで園芸植物かと思うほど大きくて可愛いウサギギク、そしてイワギキョウやチシマギキョウの花。いずれも厳しい風雪に耐え、他の植物が到底生きられないような厳しい環境にのみ生育できる植物たちです。ゴロゴロの岩場、強い風、すぐに動いてしまう地面、零下の厳冬、貧栄養な世界で、可憐な花を咲かせるには、何十年の歳月と表からは見えない深く長く地下に伸びた根があるとの事です。そこにいかなければ見られない花、鳥、昆虫達にあえて本当に嬉しかったです。この旅で昆虫は7種類、植物にいたっては20種類超える初めて見る物がありました。特に焼岳は自分の足で登ってそこまで行って初めて目にした物なので、その喜びもひとしおでした。


←コマクサ



(北緑丘 土田泰子)
くらしかん祭り報告


 10月29日(土)に「くらしかん祭り」がありました。11の登録団体と府・市局の関連団体が省エネ相談や「エコなくらし」への様々な提案を実演・展示・販売などでアピールしていました。島熊山の会も、「ぐるっとラリー」と「島熊山の自然素材を使って工作」と「物品販売」で参加しました。
 ポイントラリーの質問は、《島熊山と呼ばれる地域には、何種類の草や木が生えているでしょうか。(1)300種類 (2)600種類 (3)2450種類です。》です。正解は(1)です。(2)は豊中市全体で616種類、(3)は2000年の大阪府全域で2436種です。豊中市のデータに関しては「とよなか市民環境会議アジェンダ21・自然部会」が、2008年3月にまとめた記録に基づき、大阪府のデータは、2000年3月の大阪府発行の「大阪府レッドデータブック」によります。
 自然工作では、★ドングリ人形★竹笛★木の実の飾り鉢★ぐるぐるやじろべいです。10時から15時まで、切れ目なく工作を楽しむ子づれの大人・小中学生などが、ゆっくりと楽しんでいました。
 竹工作参加費 1550円
 竹製品頒布  4610円
会員の皆さん、作品出品から前日の準備〜当日に至るまで、ご協力いただきありがとうございます。
                   (報告 谷 ゆり)
『竹間伐の跡は今』リレー連載  第4回


●都会に残された環境を保全し利用する新たな里山を目指す!
 よく耳にする「里山」という言葉のイメージは、この会員の中でもかなり異なるのではないでしょうか。広辞苑を開くと、「人里近くにあって人々の生活と結びついた山・森林」と説明しています。新しい言葉で広辞苑の掲載は、第五版(1998年発行)からです。我が家にある広辞苑第四版(1991年発行)には、掲載されていません。古くからある言葉ですが、環境保護の意識が高まり世間一般に広まってきた言葉ではないかと思います。  当初の里山は、田畑・山林と関わりながら暮らす人々の生活に必要な薪、炭、肥料等を採取するために人工林として作られ保全し利用してきました。時代とともに便利な暮らしに変化し、燃料が電気・ガス・灯油に替わってきました。里山の手入れの機会も当然減り、手つかずにされて荒れ果て、次第に取り壊されてきました。
 島熊山は、千里ニュータウンの外周緑地として計画的に組み込まれたため残された千里丘陵の「里山」の一つです。この会では竹間伐の活動をしていますが、千里丘陵の竹林(※1)は、江戸時代の末期、稲作に向かない酸性土壌のため、農家が副業としてモウソウチクを植えたことから始まったといわれています。また、身近に残る貴重な自然を未来に伝え残そうという「21世紀に残したい日本の自然100選」に大阪府から選定された2箇所(※2)のうちの一つです。このため、島熊山が「日本の原風景」への復元とはいかないまでも、今の時代にあった里山の姿に変える手助けする活動をしたいと考えます。
 ※千里のタケノコは、京都の山城産と並ぶ極上品
 ※大阪府の2箇所は、「千里丘陵の竹林」と「淀川ワンド群」
新しい里山への手助けの活動は、「外から持ち込まない。外に持ち出さない。」を基本に活動したいと考えます。また、環境の保全に目がいきがちですが、里山への原点に帰る意味で竹や葛などを利用する視点も考えます。毎月の活動人員は、15名程度で限度がありますが、力をあわせて以下の活動をしてみてはどうでしょうか。
(1) 島熊山で森林浴の気分を味わえる散策路(観察路・作業路を含む)の整備。日が射し込むことができる密度になるように樹木を伐採。四季の花や眺望を楽しめる休息場の整備。 (2) 人の手助けが必要な樹木の育成と繁殖力の強い竹・ササ・葛などを封じ込める作戦。残すべき樹木を定めて雑木林を整理していく。竹林は原風景を考え駆除だけでなく一定の竹林エリアを設定して恵みを受ける活動。
(3) 島熊山に関係する人々に会の活動を理解してもらう活動。動植物の生育環境の保全と尾根筋散策路を住宅の緩衝帯として整備。活動内容看板を島熊山に設置して意見を聴く試み。
                   (北緑丘 土田 明)
2010くらし館祭り


 10月30日(土)くらしかん祭りが行われた。竹を使った花期、竹こっぽり、おしぼり入れ、さいばし、箸置きなどの定番人気商品と、竹鉄砲や衣紋かけ、ケーナ、木の実と古布によるアクセサリーなど、新しいアイデア商品を取り混ぜて、会員さんの知恵と技術と愛情の結集が展示机いっぱいに並んだ。⇒
 ←「作ってあそぼ」コーナーは、篠竹笛。好みの長さのパーツを選び、組みあわせて、いい音の鳴る位置を決める。簡単な作業だが、借り止めの段階で音が鳴ると、大人も子どももニッコリ、指導している会員もニッコリ。なかには、ドレミの音階を上手に鳴らす小学高学年の女の子や、若いお父さんなど、器用な方も何人かおられた。ここ数年は、飾りの要素が強い工作が続いたが、音が出たり、遊んだりできる作品もうれしいナ。さて、来年は何にしよう?・・・と早くも次のことを考えているメンバーだった。(アイデアは、今のほうが思いつくようだ。準備期間も考慮すると、なるべく早く計画を立てるに限る)
 ポイントラリーは、AとB 2枚の写真を用意して「あなたはどちらが好きですか?」正解を答えてもらうのではなく、アンケート形式。Aは整然と植付けられた花壇の写真、Bは新千里西町側から見たチガヤの穂波が揃う島熊山の草原の風景写真。最初は、Aのほうが人気だったが、最終的にはBの島熊山の風景が多くの指示を受けた。⇒
 祭り全体の参加者人数は、昨年に比べて少なくなっているようだが、そのぶん実行スタッフ一人一人が、ゆっくり楽しめる祭りとなった。会場では、久しぶりに出会う会員さんがいたり、以前一緒に活動していた人がぶらりと遊びに訪れたり、と別な楽しみもあった。また、開催時間も10時〜16時(受け付け15時まで)で、設営、後片付けも手際よくすすんで、祭り全体を通して効率のよい運営だった。
 活動日に留まらず、持ち帰って作業頂いた方、前日の会場準備、当日の製品販売、工作指導、祭り全体のスタッフ、後片付けに至るまで、ご協力頂いた皆様に感謝。 作品頒布6,700円、改訂島熊山の自然1,800円、工作900円の売上げ、ありがとうございます。
                      (写真:北緑丘 土田泰子 文:緑丘 社 ひとみ)
島熊山の葛を楽しむ(第3回)


  こんな葛根を探そう!・・・・くず粉を多く得るには
島熊山の葛を楽しむシリーズとして、第1回「くず粉つくりにチャレンジ」第2回「くずまんじゅうをつくる」を紹介した。今回(第3回)は、葛を楽しむシリーズのまとめとして、葛根からくず粉を得る効率を第1回方法から4倍近く向上できたので、この「効率的にくず粉を得る方法」を紹介する。

【葛根の観察と掘り出し】
島熊山に自生する年数の経った太い葛を観察することから始めた。葛株を選定し、掘りながら葛株から伸びる葛根の張り方を観察した。
下左の写真の手で握っている部分は、地上にでている2箇所の葛株の一つである。この株の地表面部分から水平方向に2本の蔓が伸びており1本は10mほど離れた子株と連結している。
この地表面に伸びる蔓は、地上露出部と数センチの深さに埋まっている部分があり、切断面は年輪の輪の部分が白く、この部分にでんぷん質が含まれている。
地表から60cm掘った段階でも、葛根が他の樹木の根と絡み合っいる状態であり、掘り出せないのでノコギリを使用して根に切断して葛株を掘り出した。

クズの株クズの根の年輪 白いぽい部分がある

【葛根の選定】
第1回の作業は、地上に水平に伸びる連結蔓を含めた葛根を使用した。しかし、この地上部分の蔓は採取が比較的容易であるが、くず粉の含有率も低く、木質化して硬く、叩いて柔らかにして水に晒す作業で効率的に進まない原因となった。
今回の作業は、葛株から、地表から10cmから50cmの部分から伸びた根を選定した。島熊山の土質は粘土層であり掘る苦労はあるが、掘りながら5〜7cm程度の芋状の根がでてくるのでハサミで切断をする。60cmからさらに下部に根が伸びているが作業が大変になるのでここまでとする。
掘り出した根は、芋状に膨らんでおり蔓に較べて柔らかく、ハサミで切断しては、周囲を少しづつ掘りだし、掘り出した部分を切断する作業を繰り返した。この結果、約10kgの葛根を得ることが出来た。

【くず粉の抽出作業】
掘り上げた芋状の根は、水洗いをしてハサミで30cmの長さに切断した。水に浸たし柔らかくし、ペンチで細く裂いた。この裂いた根を水に晒す作業を繰り返し、沈殿物からくず粉を抽出した。
今回の作業で約10kgの葛根からくず粉200g得られた。第1回の作業は、葛根14kgからくず粉65gであるので、約4倍のくず粉が得られた結果となった。

【効率的にくず粉を得る】
軽い気持ちで「くず粉つくり」をスタートしたが、作業をしてみると反省する点が多くでてきた。例えば、地下にある根でも芋状の根を探し出すことが大事であるが、芋状の根と蔓は表面の模様が大分違うので選別できるのが、これはあとでわかったことであった。 また、太い葛根を探すことを当初の目標としたが、作業しやすい細い根でも多くのでんぷんを含んでいることが、晒し作業の状況から分かった。
いずれにしても、葛根を深く掘る作業は大変であり、くず粉づくりは、冬季限定の野外遊びということで、気楽な気持ちで作業をすることが大事であると感じたしだいである。
【北緑丘 土田 明】
夏休み体験  河原


  ぼくの夏休み  「アシナガバチの観察」
 ぼくは、夏休みに色々な所へ行って、思いっきり遊びました。学校の宿題の自由研究では「アシナがチの観察をしました。観察した理由は、6月にアシナガチにさされて興味を持ったからです。巣は庭にありました。ぼくがねる前の9時ごろに巣を見に行くと、ハチは巣の上でねむっていたので「楽勝だ」と患いました。ぼくは「ビニールぷくろを巣にかぶせて、口を輪ゴムでしばって、後でゆうゆうとハサミで巣を切ってやろう」と考えました。しかし、ビニールぷくろをかぶせて、素早く輪ゴムでしばろうとした時に、ビニールを通して人指しゆびをさされました。ハチにさされた時は「ああ−いたい−」とさけばないではいられませんでした。さされた指は、明太子の様にはれ上がりました。
「いたいなあ…そういえば、どういう生活を送っているのかなぁ」と患いました。
夏休みの間、できるだ毎日観て、夏休み最終日には30分おきに12時間観察しました。
観察をしていると発見した事がいくつかありました。アシナがチの「アシナガ」は、足の6本全て長いのではなく、後ろの2本だけが長いのです。また、庭の花にはミツバチやクマバチがみつを集めに来ているが、アシナガバチのすがたは見られません。本で調べると、アシナガチ肉食でした。ぼくは、ハチが、緑の丸っこい物を口でくわえているのを思い出しました。それは、アシナガバチのエサの青虫の肉だんごでした。
 8月の中じゅん、巣に穴があきました。女王バチが亡くなって巣作りをやめたんだと思います。観察していると、ハチの巣の使い道は住むためではなく、育てるためのものでした。ぼくは、巣の穴に産みつけらた直径約1mmの卵や白いまゆを見つけました。「中ではサナギが羽化しているだろうなぁ」と思いました。
 ハチは巣を子育てに使ったり、ほとんどの間、かりに行ったりしていて、子孫を残すのに一生けん命だと患いました。観察をして、ハチの性質を知れ、良かったです。
                 小学校5年 東豊中町 塚 竜之輔


出来たよ♪ 夏休みの自由研究
 孫の絢美(小学5年)が広島より来阪、夫の毎日の散歩道千里川を歩きました。今回は観察目的でデジカメ片手にじいじいとバードウォッチングです。暑さ厳しい中、午後4時30分出発、双眼鏡の扱いももどかしいながらも熱心に覗いていたようです。1時間30分ぐらいできたく、念緻の飛ぶ宝石"カワセミ”も見ることが出来、早速、見てきた鳥の絵をいそいそと描き始めました。野鳥の本を参考にしながら、一つのことを知ると次なる疑問も出てきて、初めてのバードウォッチングは楽しく終わったようでした。集めた資料を持って広島に帰っていきました。
 後日連絡があり無事完成とのこと、先生から「よくできていた」と褒めて頂きました。 来年の自由研究は植物と決めたようです。自然から学ぶことの大切さ、楽しさ、いっかこの北摂の風景を想い出してくれる日が来ればいいなあ〜。
    (北緑丘 河原登子)
            きっかけ
 大阪でおじいちゃんと毎日千里川を散歩していたら、たくさんの野鳥がいて、特にカワセミはとてもきれいで、いろいろと訴ペてみようと思いました。
 (絵・写真も河原絢美さん)



白山山麓で遊び学ぷ  夏休み体験2010
 立山、富士山と並ぶ日本三名山の一つ、白山山麓を7/27〜31訪れた。すぐ近くには一向一揆の里があり、今でも資料館が残され、古い暮しの道具なども展示されていた。
 白山スーパー林道にも行った。白山市(石川県)から白川村(岐阜県)までを、切り立った崖と道路のはるか下を.流れる川、各所からほとばしる大小の滝を見ながら、その急峻さ、落差の激しさに圧倒された。  7月の白山山麓の自然
 スーパー林道の途中から三方岩岳(1736m)に登った。麓(ふもと)の集落から6時間以上かけて登られた三方岩岳へのコースは、林道開通後の今、短時間で往復できる。登りモウセンゴケやネバリノギラン、オオバギポウシなど湿地性の植物が目立った。金色の小さな花火を散りばめたようなキンコウカ(金光花)も足元で輝き、最後まで飽きることない山歩きだった。富山県側、岐阜県側、石川県川の三方向を見渡せる頂上で、ゆっくり動く夏雲を仰ぎ、白山や別山の山並みを心ゆくまで楽しんだ。
 スーパー林道入口の近くにある中宮展示館(ビジターセンター)にも寄り、裏山の蛇谷自然観察路を歩いた。オニグルミ、ブナ、ミズナラ、ウリハデカエデなどの大木古木が繁る山でオカトラノオの群落を見つけた。島熊山より栄養が良いのか、1m近い背丈のものもあり、その巨大さにびっくりする。クマの糞も発見した。木の上からするのだろうか、道に大きく広がり(50皿四方位)、糞の中には色々な種子もある。クマに出会える観察路なんてすごい!いや、怖いか…。このセンターではサルも毎朝訪れ、カモシカやタヌキなどもお馴染みらしい。
 「白山をみんなで守る活動」を知る
 三方岩岳への登り口に大きな戸板(2mXlm程)が2枚数いてあった。靴の真に付いた土が取れるようにタワシ状のシートが張られていて、登山者はその上を必ず塔んで山に入るよう注意書きもある。大きな足ふきマットだ。外来植物や低地性植物の侵入を防ぐためとのこと。これ以外にも、広い白山山域の何カ所かで定期的に草刈りやフキ・オオバコなどの低地性植物の除去作業が、自然保護センターの呼びかけで行われている。島熊山緑地で、山の中心部にブタナが入り込み、サジガンクピソウなどの在来植物に影響を与える可能性も大きいので気づいた者が手で抜いているのだが、白山では計画的組織的に取り組まれていた。水の豊かな白山、その自然を守るために、自然保護センターを中心に地元との共同作業もいろいろ企画されているようで学ぶべきことが多かった。
                 (北緑丘 易 信子)
”竹水”をゲットし参加者で味わう


 5月の森の手入れで伸びたタケノコから生命力のある"竹水"を採取して参加者で味わいました。
4月25日と30日に伸びたタケノコ(2m程)を竹水採取用として10本選定(赤マーク)。穂先をカットし、竹皮を剥ぐ処置をする。カットした穂先部分は、"穂先タケノコ"として賞味する。
 穂先をカットすることでタケノコは、その後枯死するが、竹の皮を落とすことで吸い上げられた水が節間に竹水として溜まる。
 5月8日の森の手入れで、竹水の溜まり状況をチェックしたところ、10本のうち2本で竹水が確認できた。早速、ノコギリで節付近を切りコップ状にする。この時、竹の切りくずが竹水に混じるが、無害なので気にせず上澄みを飲みことにする。竹1本でコップ2杯分の竹水を得ることができた。
 穂先カットの処置から2週間から3週間置いて竹水を採取する予定であったが、今回は10日間で採取した。もう少し期間を置いて採取した方が良かったのではと反省している。
 味わった感想を聞くと"甘みのある水""竹の風味がある"という声が聞かれた。生暖かい温度であり冷やしていれば、もっと美味に感じたと思う。竹水の味は、1本づつ微妙に味が異なる印象をうけた。
 次回(来年)はもっと多くの竹水をゲットします。「竹水飲み較べ会」の開催ができたらよいと考えます。来年になりますが、皆様の参加をお待ちしています。楽しみに待っていてください!
              【北緑丘 土田 明】

葛を楽しむ・・くず饅頭を作る


 島熊山の葛から葛粉が65gとれました。この少量で"どのような味わい方が良いか"を考えて、数が多くつくれる「くずまんじゅう」を選定しました。 葛粉の量から16個を目標で作り始めました。「葛であんを包む方法」と、「葛をあんに練りこみ方法」で、20個の「くずまんじゅう」が完成しました。完成品は、平成22年の雑木林を守る会新年会で会員に味わってもらいました。
この作成レシピは以下のとおりです。

 材料 [8人分 = 16個 ]
 練り小豆 (粒あん): 300 g
 (御座候の粒あんを使用)
 葛粉:65g 水:300 ml グラニュー糖:100g

(1)下準備
 ・練り小豆は16個に分け、丸めておく。
 ・葛粉はこし器にかけ、水と混ぜ合わせ、溶かしておく。
 ・ラップを約15cm角に切り16枚用意。
(2)作り方
【1】 鍋に砂糖を入れ、水と合わせた葛粉を加えてよく混ぜ合わせる。強火にかけ木べらで混ぜながら、2分火を入れる。
【2】 底のほうから半透明の塊状になってくれば、弱火にして、しっかり混ぜながら全体が透明になるまで練り上げる。
【3】 ラップを浅いお湯のみに添わせて敷き、サッと水をくぐらせる。【2】の1/16量を入れて、丸めた練り小豆を中央にのせ、茶きん絞りにして口を輪ゴムで留める。16個作る。
【4】 冷水に【3】をラップごとつけ、冷やす。
【5】 ラップを外して器に盛る。
【コメント】 練り小豆は、御座候の粒あんを使用しました。「くずまんじゅう」美味しかったです。段階ごとに写真を撮る予定でしたが、【1】から【3】のステップでは、葛が段々硬くなり、写真を撮る余裕はなく、やっと【3】のラップで包む段階で写真が撮れました。
                  【北緑丘 土田 明】
くず粉作りは大変!・・くず粉作りにチャレンジ


◆葛粉作りは冬季限定の野外遊び 葛根に含まれる澱粉質がもっとも豊富になることと水に晒す工程が長いため外気温が高いと澱粉質の変質や劣化が生じるため冬場が良いとされる。
 毎年11月の「森の手入れ」は、くらし館イベントに参加するため、「葛の蔓」を採取してツリー作りの活動をしている。
 平成21年秋の台風来襲では、特老ホームの裏山にある松の大木が巻きついた葛が原因で、台風の風に耐えられず根元から折れているのが見られた。
台風一過の「森の手入れ」は、荒れた森の整備とともに「ササ刈り」と「葛の除去」を行った。葛の蔓の切断跡の根元を見ると、太い葛に成長しており、大きい親株から四方に蔓が伸びて子株があることに気が付いた。
葛の除去も絶やすためには、葛根を掘りあげることが必要と考え、太い葛ならくず粉も多く取れると期待して「くず粉つくり」にチャレンジした。作業は、簡単にくず粉が取れるのではないかという軽い気持ちで行ったが、意外に大変な作業となった。
今回(第1回)は、平成21年11月から12月にかけて「くず粉つくり」にチャレンジした内容(葛根の処理からくず粉の精製までの手順)を紹介する。初めての挑戦であり無駄も多かったが、14Kgの葛根から65gのくず粉を得ることが出来た。 《島熊山の葛を楽しむ(No3)「こんな葛根がいい!・・・くず粉を多く得るには」を乞うご期待》
 【くず粉の作り方の手順】
手順1から手順9ステップを経て葛の処理を完了する。
手順1:大きく生長した葛を探し出す
大きく生長した葛を探し出すことが、くず粉づくりの最大のポイントである。参考にネットの記事を探してみると、「幹の色が黒色であるのがいい」とあったので、幹の色を目安に葛を選定した。
島熊山には、葛の年がたちやや木質化した太い蔓が、高木に絡まる様子が多く見られ、「幹が黒色の葛」を探すのは容易であった。今回は、「森の手入れ」の作業で目星をつけておいた7〜8cmの太さの葛根を選定した。
手順2:葛の地下茎を丁寧に掘り出す
 葛根は、地下15cm程度の深さの箇所で、水平方向に地下茎が四方に伸びて、さらに地下に伸びるという複雑な形であった。また、水平方向に伸びた地下茎は、他の樹木の根を避ける形で交差していた。
写真で黒く見える太い葛根は10cm程度ある。色が浅い細い葛根は4cm程度(水平に伸びた蔓が地下茎化した)である。
掘ると粘土質の土が出てきて掘る作業は苦労する。掘った穴に出てきた地下茎を鋸で部分的に切断して葛根を得た。1箇所の2時間の作業で、8Kgの葛根を採取できた。作業開始時は、丁寧に掘ったが意外と時間がかかり、面倒くさくなり段々ラフな掘り方となった。
手順3:地下茎(葛根)を現地で切断して持ち帰る
持ち運ぶため、葛根を30cm程度の長さに切断し土嚢袋を利用して収納した。

手順4:葛根を水洗いして泥を落とす
粘土が付着しており泥を水洗いして落とす。洗った葛根は、カマで表面を綺麗にしたが、水洗いで十分であり次の作業からは省略した。


手順5:葛根を柔らかくする
まず、ペンチ利用により葛根を裂き分割する方法で細かくした。しかし、この方法は、非常に手間がかかり、改善が必要と考えた。

 次に、鉈を使って太い葛根を4つ程度に縦割りに分割し、分割した葛根を金槌とゴムハンマーで叩きつぶして柔らかにする方法を採用した。この方法は、家の中ではできないので、島熊山の作業基地のベンチを借りて行った。この叩く作業は、時間がかかり根気が必要である。特に根が太く曲がっている箇所は繊維が複雑に絡み合いつぶしにくい。
手順6:水にデンプンを溶かして抽出する
バケツを使いつぶした葛根を水中で手でもみほぐす。まず、素手でしたが冷たく、すぐ手袋をする。この工程で葛根のデンプン質と灰汁が溶け出した真っ黒な液体が得られる。 この黒い液を一晩放置してデンプン質の沈殿を待つ。大きな葛根から抽出したデンプンは粒が大きく、短い時間で沈殿するが、若い葛根から抽出したデンプンは、沈殿に時間がかかる。
バケツの底には砂や不純物が残っているので、「流しのゴミとりネット」を使い、液を濾す形でバケツを移替えながら不純物を除去した。

沈殿時間は、作業都合で、2日放置した後、水の取替え作業を行った。


手順7:水に晒す工程を繰り返し精製する
バケツの上澄みを静かにこぼし、水を加えて攪拌し底に沈殿している澱粉をかき混ぜる作業を繰り返す。この操作を数回繰り返すと真っ黒な液体が純白な液体に段々変化してくる。  色が変化していく様子は、透明なペットボトル容器に入れてみると良くわかる。純白な液体がさらに白くなる様子を見ると作業甲斐がある。
白くなった液体を移し替えて精製するが、この作業では、口の大きい料理酒用のペットボトル容器が、上澄み液を簡単に移替えができたので、お勧めである。
手順8:くず粉を乾燥させる
 純白な液を容器に取り、1日置いて沈殿をさせて上澄み液を捨てる作業を繰り返す。こうしないときれいな葛デンプンにならない。
最初に葛デンプンが沈殿して、その上に不純物が沈殿する。このため不純物の薄い層ができる。この不純物を溶かして葛デンプンだけにする。
上澄み液を捨て、容器に残ったくず粉を屋外で乾燥させて葛デンプンの完成である。

手順9:葛根の処理で生じた廃棄物の処置
 作業期間 H21.11.14-H21.12.29
 葛根の重さ 8kg+6kg = 14kg
 葛粉の重さ 45g+20g = 65g
 水替え時の上澄み液は、プランターの水遣りに使用した。葛根の残りかすの繊維質は、島熊山の土に返した。

 【コメント】 葛粉作りは、いたって簡単です。しかし、実際に葛粉をつくってみて「本物の葛粉をつくる大変さ」を体験できました。10s掘るのも大変でしたが、50g(0.5%相当で良く取れたほう)しか葛粉が得られない作業効率の悪さ、寒い時期の作業など趣味作業でしないとできない感じです。
純白な葛粉をとかすと少し汚れがあり、もっと精製しようとして、上澄み液の移替えを繰り返しました。その度に葛粉が減るので、さびしくなる感じがしました。
◆くずの葉のポテトチップス
 幼児の手の平くらいのくずの葉を天ぷらにして塩を振るとポテトチップス風味
◆干して粉末にしてお茶に
 二日酔いに効くとか
 でも、あの茶黒い水がこんなに白くなるという変化は、感激です。昔の人は、時間があり、気長に作業をしていたのでしょうか?スーパーなどで見かける「葛粉」は殆どがイモ等から抽出した澱粉といわれており、100%葛粉は「本葛」などとも称されて高価な値であることもうなずけます。
葛を駆逐するのも【森の手入れ】の作業のひとつです。この記事を読んで「私もしてみよう!」と思われた方は、希望者を募集しようと思いますので参加を!
「くずの葉のポテトチップ」で試食することも・・・・
3回シリーズで報告をします。次回の第2回は、この貴重な葛粉を使った「くずまんじゅう」を試食した話です。
                  【北緑丘 土田 明】
次ぎなる10年を見据えて


2011年、20周年を迎えます  1991年3月に発足した当会は来春20周年を迎えます。1年1年、積み重ねた活動の結果です。10周年の際は『島熊山の自然』を発行しました。冊子の作成に当たって、会員さんが今まで集めた写真、資料を整理して形になりました。 そしてまた10年が経過しようとしています。人間の社会では10年はひと昔ともふた昔とも言われます。樹木にとっての10年は、わずかな年数にすぎないかもしれませんが、会の活動を振り返り、将来を考えるには、良い機会かと思います。折しも、コドラート調査を始めて10年、調査結果をまとめる委員会を昨年立ち上げました。また、モニタリングサイト1000里地調査(動植物の生育生息状況などを100年にわたって同じ方法で調べ続けるサイト:調査地点を全国に1000ケ所程度設置し、日本の自然環境の変化をとらえようという環境省のプロジェクト)に参加、調査を始めました。フィールドの現状を知ることで、今後どのように関わっていくか、見えてくる1年にしたいと思います。どうぞよろしくお顔い致します。

2010年度総会  1月16日午後2時より、くらしかん会議室で総会が行われました。出席者16人、議長に岸田興次さんを選出しました。
 まず2009年度の定例活動−森の手入れ、清掃ハイキング、トンボ池調査について各担当リーダーから報告があり、内容を確認しました。個別の活動報告については、それぞれ別紙参照ください。昨年5月に実施した遠くを見て近くを知る「針江生水の郷」、「雑木林通信」発行、くらしかん事業、近隣小学校での島熊山自然観察協力、里山ボランティア募集、等の詳細が報告されました。改訂版『島熊山の自制の発刊にあたり、販売冊数、在庫冊数等報告しました。現在626冊の在庫をかかえておりますので、イベントごとに販売に力を入れたいと思います。皆様のご臨力よろしくお願い致します。
 新年度活動方針案については、別紙参照ください。予定時間をオーバーしましたが、新年度の活動方針案が決定されました。

 引き続きお楽しみ新年会  席順を変えて、新年会に移りました。皆さんの選りすぐり持ち寄り一品をおいしく頂きながら楽しく歓談です。
 後半は、易寿史さん秘蔵写真のスライド上映会 コドラート調査を始めた1999年頃までさかのぼります。竹林が明るく変っていく様子がよくわかりました。
 さて、5年後、10年後にはどんな写真が見られるのでしょう。楽しみにしながら、2010年、新年会の幕を閉じました。
                 (緑丘:社ひとみ)
2009くらしかん祭り


 10/24(土)10時〜15時 恒例のくらしかん祭りが開催された。当日、朝一番に入ってきた"新型インフルエンザのために近隣の小学校が休校"という知らせには、愕然としたが、同じフロアーで竹工作を出展するアジェンダ21自然部会の方々と、「内輪で盛り上がりましょう」と励まし合いながらスタートした。
 今年の竹工作は「秋の虫を作ろう:岸田興次さん案」前回の活動日に会員の皆さんに協力頂いたパーツを組み立てて、それぞれの虫が出来上がっていった。あいにくの流感で、全体の子どもの人数が少なかったことと、足早に通りすぎていく大人が多かったことで、参加者は前年を下回ったが、仲間うちでは竹作品を仕上げながら親睦の場になり、楽しいひと時を過ごすことができた。
 自然素材を使った製品頒布は、花入れ、トング、菜箸、竹こっぽり、青竹踏み、木の実のブローチ、ティッシュケース、ポーチ等々、会員さんの力作が並んだ。冊子・改訂 島熊山の自然も並べて、市長さんにも購入頂いた。
 竹工作参加費・・・・・500円
 自然素材製品頒布・・・6350円
 改訂 島熊山の自然・・ 2400円

 館内の14のポイントにあるクイズに答えて景品をもらう「ぐるっとラリー」当会もポイントの一つとして参加。クイズの内容は、左記のとおり。答えの予想が全くつかないと言われる方が半分近く「お楽しみクイズなので、カンで答えてもOKですよ」と促しても、皆さんとっても真面目、考え込んで、時間がかかる人もしばしばだった。中には、「Aのイタチは、庭でよくみかけるわ」 ということで、@かBか迷われる方も。(答えはB ・@はキツネ 当日は実物大のイラストを提示)
 例年に比べて、終了時間を1時間繰り上げての開催。日没も早い時期、市民の方の出足も午前中がピークなので大きな問題はなかった。前日の準備も当日の後片付けも手際よくすすみ、コンパクトにまとまった良い祭りとなった。
                     (緑丘 社 ひとみ)
私の夏休み体験
地図は現地ではない ドイツ・フランス・スイス編



 世界地図の中でドイツ・フランス・スイスといえば、子ども時代からの教科書・歴史・小説・詩・歌などで必ず出てくるので、頭では知っているはずでした。そのつもりで8月28日から9月6日までのヨーロッパ旅行です。でも、最初の訪問国・ドイツのフランクフルトに降り立つと、太陽の強さ、気温、風の香り、大地の様子がなんか違いました。  このツアーを選んだのは、ライン川クルーズ・マッターホルン・モンサンミッシェルに行く!という、誘い言葉につられたからです。でも、実際に見る・聞く・感じることは、私の地図を塗り替えました。
◆◆

 ライン川は川幅の広い水量の多い川でした。リューデスハイムからザンクトゴアまでの2時間ぐらいのライン川クルーズの両岸には古城が多くあり、中世の騎士物語が駆け巡ります。その川下りに橋がありません。その代わり、渡し船が両岸を行き来するのです。ローレライの岩は、旗が立っていなかったら見つけられないほど普通の岩山で、妖精の話との落差にがっかりです。  ロマンチック街道をバスで走ると、車道の横に自転車道が付いています。歩道のついているところには、人と自転車を分ける青い丸の標識があります。ヨーロッパ大陸のドイツからフランスにかけてはなだらかな丘陵地帯で、サイクリングができます。
 ガイドさんに「鹿の被害は無いのですか?」と聞くと、「鹿は狩猟で撃って、肉を食べるから、まあ、問題ない」そうです。
 ロマンチック街道沿いの古城のある街に行くと、町中の3階建てとかの洋館の窓窓が、季節の花々で飾られています。町の条例で、窓を花で飾るように決められているのです。
◆◆◆

 ドイツからオーストリア、すぐスイスへと、国境をバスで通過です。国境があることを感じられませんでした。しかし、スイスの道沿いの所々に緑の盛り土があり、ガイドさんが「スイス軍の武器庫です」と、教えてくれました。「スイスの男性は20歳になると兵役の義務があり、徴兵され、訓練を受けます。個人装備の銃を一式、支給され、各自の家で保管し、銃の分解・手入れを自分でします」と言われ、大国に囲まれたスイスと、海に囲まれた島国日本の違いを目でみました。
 スイスのユングフラウ登山列車には、「日の丸」と「大津」の漢字が書かれていました。?えー?。インターラーケン市と大津市は姉妹都市です。ユングフラウ・アイガーのパンフレットの説明書には、英語・ドイツ語・フランス語・スイス語・中国語・韓国語・日本語が併記されていました。観光客が多い土地柄でしょうかね。日本に帰った時、確かめるためグーグルで検索したら、大津市の姉妹都市の記事がありました。
◆◆◆◆

 最後に、フランスのモン・サン・ミッシェルに行きました。海の中にそそり立つ世界遺産は圧倒的でした。しかし内部は、フランス革命で破壊と略奪にあい、はげた壁しか残っていません。文化財のない修道院は髑髏城みたいでした。
海の中にそそり立つ世界遺産 モン・サン・ミッシェル
潮が引くと干潟を歩いて渡ることができる

 日本に帰って空港を出た時感じたのは蒸し暑さです。汗が吹き出てきました。空気の違いからも、各々の民族・文化の違いがあるんだろうなあ……と、思いながら、長袖の服を半袖に替えました。
                              (北桜塚:谷 ユリ)
私の夏休み体験
栃木・益子の旅ときのこ展(自然史博物館)

 9月19日(土)〜21(月) 縁あって、栃木県芳賀郡益子町[土祭:ヒジサイ]に参加した。新幹線を乗り継いで、宇都宮駅下車。さすが栃木県の県庁所在地、大通りはトチノキ並木が続いたが、暫く走ると、のどかな田園地帯が広がり、所々にソバの花が一面に咲いていた。路線バスにゆられて1時間弱。「益子焼きの郷」に到着。店先にはたくさんの焼き物が置かれ、古い建物とモダンなカフェが共存する活気あふれる町並みだ。キンモクセイ、ギンモクセイが駅舎前に植えられていい香りを漂わせている。気温も大阪より低く、秋も深まりを感じた。ヤマボウシの赤い実は美味しそうにたわわに実っていたし、ガマズミの果実は赤紫に熟成していた。
 お楽しみの夕食は地元の名物「ちたけすいとん」に「ちたけ飯」を頂いた。ちたけとはチチタケ。傘は茶色で中型〜大型のキノコで、傷をつけると白色の乳液が出る。湿原や林縁に生えるチダケサシという植物があるが、この花茎にチチタケを刺して持ち帰ったことから名がついたという。お隣の福島県では、食べる習慣がなく、ちたけ好きは、県を越えて採取に行くとのことだった。ちたけは店頭に並ぶことは少なく、個人の楽しみの味らしい。調理方法はいたってシンプル、油とナスとの相性が抜群で、ダシは不要。しょうゆとみりんだけで、甘辛く炊いたものを汁やご飯、うどんに入れて食べる。触感はぼそぼそしているが、かみしめると滋味深い。

 9月26日、大阪市立自然史博物館・特別展「きのこのヒミツ」(11/3まで開催中)に出かけた。きのこ採りは、関東では盛んだが、関西は、マツタケ等なじみのものだけで、保守的な地域とある。この展示の目玉の一つ、猛毒「カエンタケ」。食べて有毒なきのこは数あるが、汁がつくと炎症をおこすこともあり、触ってはいけない唯一のキノコとして、注意を促している。毒々しく赤いサンゴのような形のキノコはとても食べたいとは思わない外観だが、食用のベニナギナタタケと間違って食べた例もあるらしい。このカエンタケが新潟などで頻繁に見られるようになった。そして、最近、関西でも目に付くようになったという日経新聞の記事も紹介してあった。生息域を広げている原因については良く分かってはいないが、枯れた木の近くに生えることが多いということから、枯れたまま放置された樹木など、森林や里山の荒廃による生態系の変化が遠因になっているのでは?という関係者の話もある。カエンタケに出会う日はあるのだろうか(緑丘・社 ひとみ)
私の夏休み体験
初めてのイワタバコ

 8月17日 blogで親しくなったS氏と、大阪南部にあるイワタバコの自生地へ連れて行ってもらいました。イワタバコは写真等では見たことがありますが実物を見たことがなかったので、「え〜大阪にイワタバコが自生しているところあるんですか!」と声をかけたら案内してくれるとのことで、連れて行ってもらいました。場所は葛城山の大阪側からの登山口です。
 日曜にはバスがあるそうですが、平日はないとのこと。バス停からは少し歩いただけで目的の場所に着きました。きれいな清水が流れている沢で岩がごつごつしています。まさにイワタバコはこういう場所に生育しているんですね。
 イワタバコは、葉(写真下)が、タバコの葉に似て大きく、岩場に生えるので、イワタバコという名になったとのこと。タバコの葉は見たことがありませんが、大きさは50cmほどもあるそうです。イワタバコはそれほど大きくはなかったですが、大きいものでは30cmくらいはありました。写真で見て抱いていたイメージよりもずっと大きくて、ほんとにきれいな花でした。

イワタバコの花

ナツノタムラソウ
 沢沿いを上って行くと水辺に生える植物が次々と登場、ツリフネソウにキツリフネ、クサアジサイ等。また、今まで見た事がない植物も見つけました。家に帰って調べて見ると、ナツノタムラソウ、コフウロ、イヌショウマと分かりました。初めての植物を見つけその名前が分かった時ってほんとに楽しいです。
 ナツノタムラソウの花は、アキノタムラソウよりも色が濃くてシベが長く突きだして魅力的な花でした。
何よりその清冷な流れは素晴らしく、最後には、水を汲む水場もありました。大阪にこんなところが有ったのねと感動しました。 やはりところ変われば、いろいろな違った花に会えるんですね。 何より水辺の植物は多彩です。生き物が育つために水が最も大切なんだな〜とつくづく感じました。
      ( 北緑丘 土田 泰子 )
島熊山の歴史をたずねて
 連載第4回目(最終回)


連載も今回が最終回です。いよいよ島熊山は膾(なます)のように切り刻まれます。

■明治以降の島熊山
慶応四年(明治元年:以後はM1のように表記します)、クーデターで政権を奪取した太政官政府は、取り上げた幕府領(御料という直轄農地や大坂城や川口居留地、開港したばかりの兵庫港や神戸居留地など、一橋領を含む)を管理するために大阪府、兵庫県を設置しました。この時点では小さい面積です。摂津国豊嶋郡の私領は摂津県(のちに豊崎県と改称)とされ兵庫県管轄に入れられ、地元青木家の領地は麻田県になりました。M4の廃藩置県で、一使三府三百二県(使は開拓使―北海道になるのはM19)となったときに、豊嶋郡と能勢郡は兵庫県から大阪府に編入され、武庫・川邊・有馬・八部・菟原の旧摂津国五郡は兵庫県に残ったままになりました。
 私の出生地は旧武庫郡本山村(現在の神戸市東灘区)で、生育地は旧豊嶋郡内田村(現在の豊中市上野)ですので、むかし同じ摂津国だったものが明治以降分かれてしまったことになります。以後高槻県、麻田県や、M12には堺県(旧河内国、和泉国、大和国)を大阪府に合併編入、M20に奈良県を分離独立させ、現在の大阪府にほぼ近い形になりました。
 では、島熊山のあった豊嶋郡はどう変わってゆくのでしょうか。豊中市の前身である豊中村は、M22の町村制施行で、旧41村が8村に統合されたときの村のひとつです(豊中、麻田、桜井谷、熊野田、南豊島、中豊島、小曽根、庄内)。M29に能勢郡と合体し豊能郡へと行政の複雑な変遷があっても、島熊山は南の熊野田村、千里川沿いの桜井谷村(江戸時代の北刀根山、南刀根山、柴原、内田、少路、野畑の6ヶ村が統合してできた)という農村の里山であったことは、以前となんら変わりがありませんでした。
 この地域が変わり始めるのは、街道沿いからでした。西国街道が国道3号道路に指定され、能勢街道に近いところをM43に箕有電車(箕面有馬電気軌道:いまの阪急電鉄)が走ります。開通時の路線は宝塚までの25kmと箕面支線の4kmで、主なお客は大阪からの寺社参りの参拝客(服部天神、原田明神、呉服神社、中山寺、勝尾寺など)と温泉客で、最初は観光遊覧のための電車でした。停車場は梅田、北野、十三、三国、服部天神、岡町(原田明神境内)、石橋、箕面、池田、山本、中山、清荒神、宝塚で、車両は1両編成、50分に1本の間隔で走りました。この当時の豊中村の人口はわずか3000人程度でした。しかし、創業者小林一三のアイデアで新事業を興すと以後沿線は急発展をします。開通の年には池田室町で住宅地(電灯・電力の供給も含む)を売り出し、箕面に動物園を作り(のち宝塚に移転)、翌年には宝塚新温泉の営業を開始し、2年後宝塚唱歌隊(のちの宝塚歌劇団)を組織し、豊中に停車場を新設してグラウンドの開設と住宅(玉井町)の開発・販売、T4には豊中運動場で「第1回全国中等学校優勝野球大会」が開催されました。T8、大阪府立医科大学と改称された緒方洪庵の適塾が待兼山に校舎を建設(のち発展的に解消し旧制浪速高校がその南側に新築)、T10には、豊中、熊野田、櫻井谷各村の領域にまたがる地に、府立豊中中学(現豊中高校)が建設されました。開校当時豊中停車場から東の丘の上にはその三階建ての白い校舎だけが見えたといいますから余程の田舎だったのでしょう。またT15には、大阪市内でM10創立の梅花女学校が近くに移転してきました。この頃ようやく人口は10,000人を越えますが、豊中中学校・梅花女学校の両校からは島熊山までの間にさえぎる建物は何もなく、麓(緑ヶ丘から西緑丘)は雑木林に竹やぶ、すすき野が広がっていました。
 昭和に入ると阪急の沿線から住宅地が増え始め、人口は急激に増加し、豊中村は町になります。谷崎潤一郎の小説「蓼喰う虫」の主人公、有閑階級の斯波要・美佐子夫婦も阪急電車の豊中に住んでいました。『・・・夫婦はそんなふうに別々の心を抱いて阪急の豊中から梅田行きの電車に乗った。・・・車の中は時間が半ばであるせいかまばらな客がめいめいゆっくりと席を取り、ま新しい白ペンキの天井の下は空気がすみまで透きとおっていて、並んでいる人たちの顔までが、皆健康そうに、朗らかに明るい。』
 S8ついに島熊山の麓へ開発が及びます。東豊中住宅地ができたときに、豊中駅前から豊中中学前まで通っていたバスが、青池、三ツ池を経由して深谷池の手前まで延伸されました。そして、S11.10.15、豊中町は隣の麻田村、桜井谷村、熊野田村の3村と合併し、岸和田に次いで府下4番目の市になりました。江戸時代から明治・大正にかけて豊嶋郡最大の町であった池田を追い越してしまいました(池田は少し遅れ府下6番目に市になりました)。それでも、まだこのとき人口は37,733人でした。

■戦後から現在まで(あとがきにかえて)
私がこの地にやってきたのは戦後のS27ですが、このとき豊中市はすでに中豊島、南豊島、小曽根の3村を編入し(まだ庄内町は合併前)、人口は80,000人前後に増えていたものの、豊中から東豊中へ至るバス道周辺と旧箕面街道沿いに宅地はありましたが、少し外れると田畑が多く残って田園風景が拡がり、いまロマンチック街道などとしゃれた名前の付いている道はレンゲ畑で、少し歩くと羽鷹池の手前(上野の方から行ったとき)辺りに大きな橡の木があり、カブト虫が居たのを記憶しています。そこからは島熊山が見えましたが、その先はけもの道のような細い道が野畑の方へ続いていました。子どもの遊び場所はまだ近くにたくさんありました。野原には蝶やトンボがたくさんいて、池にはフナやモロコ、そこから流れ出る小川にはメダカやドジョウやトノサマガエルやカニもおり、天竺川の支流の兎川にはタニシもいました。千里川の下流、猪名川へ合流するところにはシジミもいたと聞きましたが、さすがにそこまでは遊びには行けず、島熊山も子どもの足では結構遠くて、頻繁に行ける場所ではありませんでした。
 S36、千里丘陵、島熊山の東側についにブルドーザが入りました。千里ニュータウンの開発が始まったのです。ちょうど高校進学の頃でした。記憶が定かではありませんが、吹田側から工事が始まったように思います。その後数年は島熊山の頂上も、まわりの竹薮もまだ残っておりましたが、4年後に大阪を離れS44の秋に戻ってきたときにはまったく風景が変わってしまっていました。島熊山は膾にされ、中央環状も新御堂筋も緑ヶ丘住宅地の開発もこの間に行われていたのでした。むかしは竹やぶと千里山へ抜ける細い道しかなかったところになんと地下鉄が走っていたのにはびっくり仰天、浦島太郎の状態でした。
 蛇足ですが千里山といえば、T10に開業した北大坂電鉄という電車の終点が千里山でした。前号で紹介した江戸時代の地図の千里山とはだいぶ離れていますが、十三から淡路、吹田、豊津を通り(崇禅寺・吹田間は旧東海道線跡を転用して作ったとか)、豊津からは急勾配のためそこまでが限界だった路線なのでしょう。それが千里ニュータウンに対応して、S38に新千里山(現南千里)に延伸され、当初は千里中央あたりを通って、箕面線の桜井駅に通じる計画だったのが、万博開催により北千里側へ曲げられ、桜井接続案は廃止になりました。もし、万博がなかったら!?!?島熊山はさらに切り刻まれていたはずです。
 明治維新と太平洋戦争で二度も歴史・文化を捨て、急ぎすぎる西洋化・アメリカ化を進めてきた結果は、この国を鉄とコンクリートと横文字だらけの国にしています。わずかに残っている島熊山のように、まだ少しは残っている自然と、美しい日本語と、誇るべき日本の伝統文化を継承する人たちが少しでも増えることを願ってこの連載を終わります。拙い知識で恥ずかしながら4回も書いてしまった「島熊山の昔をたずねて」ですが、読んでいただいた皆様、まことにありがとうございました。 (完)

<おまけ> 島熊山を詠んだ万葉集の原文です
          玉勝間嶋熊山之夕晩独可君之山道将越
          一云 暮霧尓長恋為乍寐不勝可母
  (万葉集の原文はすべて漢字で書かれているので、その表記がどの和語にあたるのか、千年の訓読みの歴史でいろいろな説が展開されています)
                               (上野西 土井正彦)

《おことわり》
連載を通じて、引用した文章、図、地名などは歴史資料としてそのまま掲載した部分がありますので、ご了承ください。
豊中市立生活情報センター2008年
くらしかん祭りが開催されました


 10/25(土)雨天の心配もしましたが、なんとか曇り空のオープニングとなりました。ここ十年ほどは、筋向の国際交流センターのセンターまつりと同時開催、いつもだと両方の建物を行き来する人で通りは賑っているのですが・・・今年からは当館単独開催となり、入場者数も予測がつかない状態でした。結果としては、野菜は外の駐車場で販売(早々に完売した様子)、ポイントラリーの参加者も混み合うことなく、じっくり歩いて回ることができました。主催者側の私達も、ゆったりとした気分で持ち場を担当し、交代でポイントラリーに参加することもできました。入場者数は去年よりは減少しましたが、「主催者団体のメンバーも一緒になって楽しめるお祭り」という形ができてきたように思います。 恒例になりましたポイントラリー、今年の問題は「豊中で最も高い山が島熊山です。では,標高は、およそ何メートルでしょう?」@300m  A660m   B130mヒントは@(北摂・五月山(さつきやま)315m)A(能勢・妙見(みょうけん)山660m)B(大和三山・耳(みみ)成山(なしやま)140m)みなさんも一緒に考えてみてください。(正解は末尾)正解率は
 60%。@の五月山?という方も多く、意外と知られていないことがわかりました。
 自然素材の作品頒布コーナーでは、竹製の花器や靴べら、器、こっぽり、ドングリや小枝と古布でできたアクセサリーや壁掛け、つるで編んだ籠など会員さんの力作が並びました。
 工作コーナーは来年の干支・牛の置物を間伐竹で作ります。なかなか趣深い仕上がりで、大人好みの作品となりました。(写真左)
 9月、10月の活動日の時間を使っての作品作りや工作準備から始まり、ポイントラリーの景品作り、前日の会場設営、当日の後片付けまで、会員の皆さんの協力のお陰で、今年も無事楽しく終了することができました。ありがとうございます。
作品頒布 4,700円、竹工作1,200円
(写真:土田 泰子、報告:社 ひとみ)
    ポイントラリークイズ答え B
コモンズの悲劇


いったいどんな悲劇だろうか。 コモンズとは一般に「共有」とか「共有地」とかという意味に使われています。また「入会地」と訳するのが適当であるという考え方もあるようです。

「コモンズの悲劇」(tragedy of the commones)は、G.ハーディンという生物学者が1968年に同名論文を発表したのが始まりといわれています。ハーディンは、牧草の生えている共有地に農民が牛を放牧するという状況を設定しています。
 詳しく鋭明しましょう。農民は少しでも自分の利益を多くしようとして、われ先にと1頭でも多くの牛を共有地に放牧しようとします。そうすると、牧草地は過放牧になって荒廃し、牧草はたちまちなくなってしまいます。このため農民全員が牛を失い大きな被害をこうむることになるのです。つまり、農民たちが共有地を何の制限もなく自由に利用できる限り、共有地の荒廃を防ぐことができないことになります。環境経済学では必ずといっていいほど引き合いに出される「悲劇」です。
 頭の体操のつもりで、次の問題について考えてみてください。
 「牧場に牧草が一面に生えています。この牧場こ牛を50頭放牧したら10日で牧草がなくなります。30頭放牧すると30日もちます。もし20頭放牧したら何日もちますか」

 これは漁業資源の問題に置き換えることができます。牧場は漁場で、牧草は漁業資源、牛が漁業者ということになります。「20頭放牧したら何日もちますか」の解こそが、漁業資源の持続的利用そのものだと考えることができます。漁業者1人ひとりが自分の利益だけを考え、漁業資源全体の再生産能力などをまったく無視して、漁獲しようとしたらどうなるだろうか。漁業資源は次第に枯渇して漁業そのものが成り立たなくなってしまいます。
 ちょっと専門的になりますが、1996年(平成8年)7月20日、「国連海洋法条約」(「200海里法」)がわが国について発効しました。漁業資源が豊富な海域は、沿岸から200海里(釣370km)ぐらいまでの大陸棚およぴその周辺海域に限られています。この条約では、沿岸国に対して「排他的経済水域」(EEZ)が設定され、EEZ内の資源は沿岸国が管理することになったのです。沿岸各国がEEZを設定した残りがいわゆる「公海」になるわけです。資源とは海洋生物資源はもちろんですが、海底の地下の天然資源なども含まれます。「排他的」とは沿岸国EEZ内に他国が勝手に入ってきて資源を取ってはいけないという意味です。
 EE三内の漁業資源は原則として他国の漁船は漁獲することはできません。しかし、沿岸国は、自国が漁獲可能量(TAC)のすべてを漁獲する能力がない場合は、TACの余剰分の漁獲は他国に認めなければならない規定になっています。わが国のTAC対象魚種はサンマ、スケトウダラ、マアジ、マイワシ、さば類、ズワイガニとスルメイカの7種です。
 今までですと、漁業者は比較的狭い領海(3〜12海里)を超えた公海で自由に漁業資源を利用してきました。このため漁業資寮の豊富な海域には漁船が集中することになり、漁獲量は次第に減少していきました。EEZが設定されることによって、EEZ内の漁業資源は沿岸国が責任をもって保存し管理していくことにしたのです。こうすることで沿岸国EEZ内め資源は諸外国によって荒らされなくてすむことになりました。
 ある文献によれが、「コモンズの悲劇」に関する議論は、再生可能な環境資源(あるいは自然資源ともいう)の持続的な利用や管理の重要性を気づかせる点で重要であったといわれています。たとえば、漁業の歩合を考えると、漁業資源の持続可能な利用こそ重要であるということになります。
 いま「コモンズの悲劇」が深く静かに進行しています。この悲劇は食量危機、森林の減少、海洋汚染、大気汚染そして地球温暖化などの形で、顕在化してきています。特に地球温暖化はいずれ制御不能に陥ってしまうのではないだろうかと危惧しています。40年前にハーデインが想定したような自由に放牧できる牧草の生えた共有地を現在に置き換えてみます。共有地は地球であり、牧草は森林資源や漁業資源などのあらゆる自然資源ということになります。牛は世界の人口66億にたとえることができるでしょう。
 私たちはことあるごとに「地球に優しくしよう」という言葉をよく口にします。これは人間の思い上がりではないだろうか。ほんとうに地球は優しくしてほしいと思っているだろうか。ひょっとしたら「優しくしてもらわなくても結構。ほっといてくれ」と言い放っているかもしれません。
                     (東豊中町 浜口弘幸)
島熊山の歴史をたずねて
 連載第三回目


 島熊山がもっとも大切に扱われた時代の絵図があります。「摂津国名所大絵図(寛延元年-1748)」と「改正摂津国名所旧跡再見大絵図(天保七年-1836)」ですが、島熊山を中心に西に待兼山、東に千里山の名が見えます。今回は、鎌倉・室町・戦国時代から織豊・徳川時代を経て、再度朝廷に政権が戻る明治維新までの武士の時代を一気に振り返ります。

■近世の島熊山
 武士の時代、島熊山は京に近かったこともあって、周辺をたびたび将兵が往来します。北を通る西国街道を、また南の神崎川沿岸を大勢の武士が通りました。12世紀の源平の合戦では源義経・範頼が、14世紀の南北朝時代には楠木正成が、15世紀の応仁の乱の西軍大内政弘は上洛の時この辺りを通ったのでした。戦国時代になると、摂津国豊嶋郡を本拠とした国人に呉庭荘(くれはのしょう)で力を蓄えた池田氏がいました。15世紀半ばには池田城を構え、主に島熊山の南から西に広がる西牧(近衛領などの中世の荘園は春日社領に寄進されました)の櫻井荘にも侵略してきたことがあります。
 1568(永禄十一年)に織田信長が上洛すると、池田城主の池田勝正は降伏して越前の朝倉攻めにも兵を出します。しかし下克上の時代ですから、うっかりすると臣下にやられてしまう。案の定、勝正も臣下の荒木村重に追放されてしまいました。その村重も信長には屈服、信長配下として伊丹氏を倒し摂津国を平定、伊丹の有岡城を拠点として摂津守となりました。しかし1578(天正六年)荒木村重は何を思ったか、信長に謀反を起こし本願寺・毛利連合につきます。有岡城を信長に攻められた時、このあたりの神社も焼かれてしまいます(豊中稲荷神社、熊野田の八坂神社の由緒書による)。1582(天正十年)、「本能寺の変」のときには羽柴筑前守秀吉は中国大返しで神埼川沿いに尼崎城から大山崎へ向かい明知光秀を倒しました。その後関ヶ原の戦いや大坂夏の陣では、主戦場にならなかったこの辺りでしたが、その時にもやはり寺社は焼かれたといわれています。
 1615(元和元年)以降、徳川政権は安定してようやく平和な農村に戻りました。能勢の産物を消費地大坂へつなぐ能勢街道、寺社詣の箕面街道・勝尾寺道・観音巡礼道の他には田畑と入会山の島熊山などがあるだけの地域です。山々が最も活躍したのはこの時代でしょう。
 「島熊山の雑木林を守る会」の活動日に集合場所となっているのは豊島高校正門ですが、裏門を出て千里川へ向かって下り、渡ってしばらく行くと、忠臣蔵で有名な萱野三平重實の実家、萱野旧邸があります。江戸時代の萱野家は、椋橋荘(庄内)を支配していた美濃の旗本大島出羽守の家来ですが、もともとは清和源氏の末裔、鎌倉・室町時代には豊嶋郡萱野村の豪族でした。荒木村重に従ったために滅び、のちに大島氏に仕えます。その大島氏の推挙で萱野三平は播磨国赤穂の浅野内匠頭長矩の小姓になりましたが、27歳のとき事件に遭遇します。1701(元禄十四年)三月十四日の「松の廊下の刃傷事件」の第一報は、萱野三平と早見藤左衛門が早駕籠に乗り赤穂に知らせました。西国街道は三平の実家の真ん前を通っているのですが、早駕籠が通る時ちょうど母小満の葬式が行われておりました。しかし、三平はそのまま赤穂へ・・・と、伝えられていますが、この話ウソか?ホントか!わかりません。浅野家中の仲間と江戸へ出るという三平、主君大島氏に迷惑がかかると反対する父、悩んだ三平は遺書を残して、討ち入りの十ヶ月前の主君の月命日に切腹したのであります。
「晴れゆくや 日頃心の花曇り」  涓泉(萱野三平の号)

また俳句で三平と同門の大高源吾が生前に三平を尋ねたときに詠んだ句の石碑が原田神社の鳥居(能勢街道を大坂方面から来たところの)をくぐった左側にあります。
「末枯や 餅にとどまるさくら塚」 子葉(大高源吾の号)

三平の墓は、当時山中にありましたが、箕面市民病院建設のために千里川畔に移されました。
 1798(寛政十年)の「攝津名所圖會」には、このあたりの名所がいくつか紹介されています。『千里山(ちさとやま)、またの名寝山(ねやま)と云ふ。島下・豊嶋の二郡に続いて山脈三里に及べり。九十九谷あり。今一つを欠いて百に足らず。足らんなば虎臥す野辺とならんときこりのいふ所なり。その広大なるをもつて千里山と称す。待兼山・島熊山・邂逅山(たまさかやま)等みな千里山の山脈なり。また寝山と詠ずる和歌「夫木集」に見えたり(前号参照)。』『島熊山、熊野田村の北にあり。一名鬼ヶ嶽といふ。千里山の山脈つづきにて嶮岨崔嵬たり。山中に大巌多し。また宝珠寺熊野田村にあり。鎮守牛頭天王(現八坂神社のこと)。<中略>むかし花山院、仏眼上人を導として観音の霊場三十三所を順礼したまひ、その後仏眼上人に詔して畿内に熊野山を移さしめたまふ。上人摂州豊島郡仏念山熊野権現の霊地なりとて、ここに勧請しける。ゆゑに山号を熊野代山といひ、村名を熊野代といふ。今は熊野田と書きあやまるなり。(これも前号で紹介したとおり)』『千里川、一名六車川、またの名箕輪川、またの名田代川。水源萱野谷・牧野の二渓より桜井谷および新免、箕輪、走井、勝部をへて猪名川に入る。』『天竺川は水源稲野山(千里ニュータウンで削られて無い?)より流れて、上津島・椋橋を歴て三国川へ入る。常には水なくして平沙永く連なり千歩に及ぶ。ゆゑに天竺川の俗称なりと・・・』

 江戸時代、島熊山を取りまく村々を支配していた領主は誰だったのでしょうか。北麓の稲村、牧村(萱野の一部)は一橋領、千里川沿いは上流から武蔵国岡部藩(現埼玉県深谷)の安部家三万石、地元摂津国麻田藩の青木家一万石、上総国飯野藩(現千葉県富津)の保科家三万石の各大名が支配しており、南麓の熊野田村は旗本蒔田家の領地で、島下郡山田村上新田(豊中市に編入されたのは戦後)の領主は山城国淀城主の稲葉家十万二千石でした。当時、江戸や大坂などの大都市近郊は、国主大名の領地のように独占的領地は少なく、飛び飛びに幕府直轄地や大名・旗本の知行地が入り混じった複雑な地域で、相給(ひとつの村を複数の領主が支配する)も珍しくはなく、たとえば江戸に近い関八州のある村は七十二軒を旗本十三人に分けられた例もあるといいます。岡部藩安部家は当初は五千石の旗本だったのが大坂城番就任で大名となりました。1842(天保十三年)に高島流砲術の高島秋帆が鳥居耀蔵に罪名を作られてお預けになったところです。高島秋帆は、1853(嘉永五年)に、幽囚10年ののち赦免となって江川太郎左衛門の手付となり、二年後の安政二年に品川砲台場七基を完成させ(お台場に現在残るのは2つ)鉄砲方手付教授方頭取となりました。安部家の摂津の所領は利倉村などに八千石、三河には七千石、上野にも九百石、陣屋のある武蔵に四千三百石などと分散していました。地元麻田藩はもと豊臣の家臣で滅亡後は剃髪、しかし家康のはからいで麻田村に領地を与えられ復帰しました。もともと青木家は美濃の豪族で土岐、斎藤、織田ら美濃を支配した家に仕え、父は秀吉に仕えますが、子の青木一重は今川に仕えたのち家康に仕えます。最終的には父の縁で豊臣家臣となったようですが、若い時に家康に知られたことが、のちのち生き延びるきっかけになるなんて。親元を離れ他人のメシを食うことは必要ですね。淀藩の稲葉家は信長に刃向った林政秀の子が稲葉家に養子に行って、春日局の夫になり出世して、その子も老中になり小田原城主になりましたが、越後府中、下総佐倉を経て淀へ移ってきた引越し大名です。幕末の藩主稲葉正邦も老中を務めますが、鳥羽・伏見の戦いで淀城に入城しようと保護を求めた幕府軍に城門を開かず、幕府軍を敗北に追いやりました。小笠原長行(唐津藩)や板倉勝静(備中松山藩)が箱館戦争まで戦い幕府に忠誠を尽くした老中であったのに比べると、稲葉正邦と藤堂高猷(新政府軍について大山崎から幕府軍に向けて大砲を撃った津藩の藩主)は、「戊辰戦争の裏切り者」として幕府側からも新政府側からも侮蔑されたようです。
 飯野藩保科家は歴史好きの人なら誰でも知っている、かの有名な幕末の京都守護職松平容保(会津若松松平家)の祖先である保科正之が養子に入った家です。もともとは源氏の流れをくみ、桜で有名な高遠の国人でしたが武田信玄の信濃侵攻で臣下となり、武田二十四将の一人となって「槍弾正」と呼ばれました。しかし武田勝頼のときに織田信長に攻められ、落城後は徳川家康に仕え、二代将軍徳川秀忠の隠し子を養子に預かって、保科正之と名乗らせ高遠藩三万石を嗣ぎました。保科正之は異母兄の三代将軍家光、甥の四代将軍家綱の補佐役になり、会津へ移って二十五万石で徳川の親戚を認められます。松平家を名乗ることになった正之は義理の叔父保科正貞に累代の家宝を譲り家督を返上しました。保科家は代々大坂城番(幕府直轄の大坂城を守る役割の武官)を勤め、摂津の領地が大半で新免村、勝部村、小曽根村などに一万百余石、一方陣屋のある房総には約四千石しかありませんでした。
 蛇足ですが、幕末の藩主保科正益(まさあり)も大坂城京橋口定番でしたが、1866(慶応二年)五月、若年寄に出世したため大坂城番を退任し、ちょうど始まった第二次長州征伐に出陣します。しかし七月に十四代将軍徳川家茂が急死したので、石州口到着前に運よく解兵し江戸の藩邸に戻ります(そうでなければ長州の大村益次郎にやられていたかも?)。さらに年末には孝明天皇が崩御され、翌年には十五代将軍徳川慶喜が大政を奉還してしまいました。そうこうするうちに、鳥羽・伏見の戦いが始まり、朝廷からは上洛せよとの命が下る。しかし親戚の京都守護職松平容保を無視して勤皇に豹変することも出来ず、会津藩へ養女となって行っていた照姫という姉が居たこともあって困りはてていました。しかし普段は江戸の会津藩邸に居る姉も、この時は挨拶もなく会津若松の鶴ヶ城に旅立ったので、弟はやむなく京へ向かいます。七ヵ月後、鶴ヶ城では照姫が600有余人の婦女子を総指揮します。会津戦争で籠城した負傷兵の看護・炊事・弾丸の製造は婦女子達の務めでした。しかし籠城から一ヵ月後、4900余人はついに投降、藩主父子をはじめ照姫も謹慎させられます。明治元年12月、明治新政府が陸奥・出羽・越後の諸藩に対する処分を発表、会津藩は斗南藩(旧南部藩領の一部)三万石に移されます。また、会津戦争の首謀者として会津藩家老萱野権兵衛の斬刑を申し渡されたのは、皮肉にも照姫の弟の保科正益でした。弟は武士の情けなど認めない斬刑をひそかに切腹とし、萱野権兵衛の武士の体面をまっとうさせ、姉の照姫は権兵衛本人に和歌一首を贈りました。照姫は書・和歌を能くし、松平容保もてほどきを受けたといわれています。
「夢うつゝ思ひも分す惜むそよ まことある名は世に残るとも」

その後、姉は弟の小石川藩邸に預け替えとなり、明治17年に54歳で逝去(法名を照桂院という)、いまは養父、義弟と同じ会津の墓所に眠っています。
                               (上野西 土井正彦)
島熊山の歴史をたずねて
 連載第二回目


「島熊山の昔をたずねて」第二回は、約1000年前に遡ることにしましょう。紫式部が「源氏物語」を書いていた時代です。

■中世の島熊山
 8世紀に都が大和から山城に移り、平安京の羅城門から大宰府へ通じる西国街道が島熊山の北側を通ると、交通の要所となったこの周辺には公卿や寺社領の荘園が増えてゆきます。島熊山の西南麓にむかし行基の創建した金寺という寺があったらしいのですが(本町8丁目の豊中市教育委員会の標識による)、廃寺となって近衛氏領となり三車乃荘(のち新免乃荘)と呼ばれていました。その領内に祠を建てたのが、現豊中稲荷神社の成り立ちといわれています(豊中稲荷の由緒書きによる)。そこから北東方向へ千里川沿いに餘戸郷(のち櫻井荘、近年には櫻井谷という)があり、東には島熊山の峰が見えました。さらに北東方向に続く峰は千里山、総称して寐山(ねやま)と云われました。飛びぬけて高い山も無い、人が寝ころんだような形の山々がそう呼ばれたのでしょう。その寐山は歌に詠まれました。

 「つれて行く寐山もしらぬ白鳥の さきのよもうき身の契りかな」                          (夫木抄 巻二十 行家)

この辺りの歌の名所は、島熊山のほかにも、千里川をはさんで反対側の西の向こうにも少し低い待兼山、たまさか山などがありました。
 「津の国の待兼山のよぶこ鳥 なけど今来(いまく)といふ人もなし」                         (古今和歌六帖より)

 「夜を重ね待兼山の子規 雲井のよそに一聲ぞきく」(新古今 周防内侍)

 「かたらひしわが恋妻や郭公 たまさか山に声の聞ゆる」(夫木抄 顕昭)

 「うき世にはありへむこともたまさかの いけらむとたに思いやはする」                         (夫木抄 巻二十三 和泉式部)

などなど、西国街道と能勢街道の交差するところは、歌でも有名だったようです。
 藤原氏が権力を握ったこの時代は朝廷内抗争が激しく、901年(延喜元年)に菅原道真が藤原時平に大宰府へ左遷される事件があったりしましたが、その後は概ね現在とよく似た“平和ボケ”の蔓延した時代で、そのかわりといってはなんですが、平安文化が花開き紫式部や和泉式部、清少納言が登場するのもこの頃です。
 968年(安和元年)、師貞親王のちの花山(かざん)天皇がお生まれになります。冷泉天皇の第一子で、翌年に冷泉天皇が同母弟の円融天皇に譲位されたために、わずか2歳で皇太子となりました。4歳で外祖父伊尹(母の父)が亡くなり、これが不幸の始まりで、円融天皇が藤原兼家の嫌がらせに嫌気がさして譲位したことによって17歳で即位し第65代の花山天皇となります。しかし在位2年足らずで、この天皇も兼家の謀略で退位に追い込まれます。最愛の妃が亡くなったのをきっかけに、出家の気持ちを持ったのを利用され、東山の元慶寺(がんぎょうじ)で出家させられ、兼家の外孫の懐仁親王をわずか7才で一条天皇として即位させます。兼家が摂政になるための策略でした。
 わずか19歳の若さで退位、出家した花山法皇は仏道修行に励み、歌を詠み、数多くの女性を愛します。源氏物語を地で行ったようなものです。花山法皇は熊野で修行し、そこで三十三ヵ所観音霊場巡礼を発願されます。河内国石川寺の仏眼上人を導師として、摂津国中山寺の辨光上人、播磨国円教寺の性空上人(今年の夏、書写山円教寺で性空上人木像の体内から上人の遺骨らしきものが発見されたニュースを記憶されている方も居られるでしょう)と共に青岸渡寺から巡礼に出ます。法皇は観音霊場巡礼の途中で、島熊山の南に続く峰が紀州熊野に似ていると、ここに神社(現八坂神社)と仏閣(山号「熊野代山」、寺号「宝珠寺」)を造営されます。花山法皇開基、佛眼上人開山と伝えられ、そのいわれから熊野田という地名になったということです。近くには仏眼上人の名を残す仏眼寺もあり、当初は宝珠寺の奧院と称した寺だったそうです。
 4年後に帰京した法皇でしたが、京では新しくできた愛人の許へ通いはじめ、これがもとで「長徳の変」という事件が起こります。藤原兼家の子道長の甥で政界のライバルだった藤原伊周(これちか)が、美人の誉れ高かった元太政大臣藤原為光の娘の三の君のもとに通っており、下の娘の四の君のもとへ通う法皇を恋敵と勘違いし、法皇を狙撃したのです。その結果伊周は左遷され、以後道長の独壇場となるきっかけの事件です。法皇はふたたび熊野詣を企てられますが、関白・藤原道長に阻止され、それからは『古今和歌集』『後撰和歌集』に続く第三の勅撰集『拾遺和歌集』を編纂し、39歳の頃に完成されました。その中に清原元輔(清少納言の父)の歌があります。
 「君か世を 何にたとへむ さゝれ石の いはほとならん 程もあかねは」
その後法皇は、摂津国紫雲山観音寺(今の花山院菩提寺:三田市)に隠棲すると、京の都から女官たちが法皇を慕って山麓に住んだといいます。西国三十三観音巡礼と熊野詣の祖である花山法皇(花山院)は、ちょうど1000年前の1008年(寛弘五年)に41才で崩御されました。花山法皇が19歳で京に居場所を無くし、また熊野詣をしたときに詠まれた歌があります。

 「木(こ)のもとをすみかとすればおのづから花見る人になりぬべきかな」

 「いはばしる滝にまがひて那智の山 高ねをみれば花のしら雲」

というものでした。
                               (上野西 土井正彦)
島熊山の歴史をたずねて
 第一回


 21世紀の今、豊中市の北東辺にわずかに残る"島熊山"ですが、いにしえには摂津国豊嶋郡といったこの地域には、千里丘陵の山々が連なっていました。わずか半世紀前まで、島熊山は南の熊野田と西の櫻井谷の里山だったのです。その昔、この周辺はどんな様子だったのでしょうか。その歴史を辿りたいと思います。

■古代の島熊山
 まず、4〜5000年前の縄文時代には、この辺りはどうなっていたのでしょうか。島熊山は、神崎川の支流の猪名川から分かれた千里川と、もう少し上流で神崎川から分かれた天竺川、高川の間に広がっていた「千里丘陵」の峰のひとつです。しかし大昔の海岸線は、今よりもずっと山側にありましたから、千里川は猪名川に合流するとすぐに海へ注ぎ、天竺川・高川も同様に直接海に注いでいたと考えられ、神崎川のあたりはすべて海で、海は河内潟という入り江につながり、海と山は接近していて平野部分は狭かったでしょう。そして住人は山で木の実を取り、水辺で魚貝をとりながら生活をしていました。その証拠にこの周辺には縄文時代の遺跡がたくさん残っています。島熊山の西麓の桜井谷にも遺跡がたくさんあります。
 その後、弥生人が稲や道具や織物を持って来ると(どこから来たかは諸説ありますが、私の私見では大陸の南。今でも雲南省あたりの少数民族、イ族やペー族の若い女性は日本の女子高生と判別不可能なほど似ています)、先住民族の縄文人の多数は新しい文明を受け入れて農作を始め、島熊山の麓にもムラ(農耕集落)が増えてゆきます。縄文土器と弥生土器が一緒に出土している遺跡も多いのです(小曽根遺跡や山之上遺跡など)。やがていくつかのムラが集まってクニ(大規模な農耕集落)ができ、統治する豪族が出てきます。いわゆる古墳時代といわれる時代には、この周辺(宝塚〜池田〜豊中〜茨木あたり)の山々の麓には豪族の古墳がたくさんありました。桜塚古墳群、新免宮山古墳群(本町)、たこ塚古墳群(永楽荘)などがそうです。桜塚には江戸時代は数十基以上もあったらしいのですが、今でも大石塚、小石塚、大塚、御獅子塚、南天平塚などのいくつかの古墳が残っています。また、この周辺には渡来人が織物や穀物を持ってきたとの伝承が残っています。池田・呉服神社の呉服姫(くれはひめ)、伊居太神社の穴織姫(あやはひめ)、宝塚・売布神社の下照姫(しもてるひめ)などです。卑弥呼もそうでしたが、古代のエライカミサマはいずれも女性です(もっとも、現在でもえらいのはカミサンですが)。
* この頃島熊山の上から南を望むと、右前方は海、そこから猪名川をさかのぼれば池田へは簡単に行けます。左前方には河内湖(潟)という湖があって、その向こうには生駒山が見え、また正面に小高い丘があり、そこにはここらあたりで一番力のあるダイオウ(仁徳天皇)が居て、ミヤコ(難波高津宮)がありましたとさ。丘の向こうに二上山、葛城山の山々が見えました。やがてダイオウの子孫(継体天皇)が河内湖周辺の豪族だけではなく、山の向こうや海の向こうの豪族も支配下において、ミヤコをヤマトに移します。この頃までの住人は独自の文字を持たない無文字民族で、歌で歴史(神話)を伝えたり、歌会(歌掛け=歌垣)で求婚をしていたのでしょう。のちの書物「摂津国風土記」には、歌垣山があり男女が歌垣をしたと書いてあります。もしかすると島熊山でも、男と女が配偶者を得るために、固定的なメロディーに即興の歌詞をのせて交し合う歌掛けが、農耕の予祝儀礼で行われていたかもしれません。(古代の地形は、下図のようなものと推定されます) そのうちに、海の向こうから文字やカレンダーや宗教を持ってきた一部の渡来人が使っていた文明を取り込むと、やがて国家の原形らしきものが出来てきて、ある時統治者(天武天皇)はそれまでに歌い継いだ神話や歌謡を文字を使って書物にしなさいと命じます。こうして「古事記」「風土記」「万葉集」などが編成されました。「万葉集」巻十二・古今相聞往来の歌の類"別れを悲しめる歌三十一首"の中に島熊山が歌に詠まれて残っています<三一九三>。豊中不動尊には、その歌碑が作られています。
   留守の妻が夫を偲んで詠んだ歌
      「玉かつま島熊山の夕晩にひとりか君が山道越ゆらむ」
   旅する夫の歌
      「夕霧に長恋しつつ寝(い)ねかてぬかも」
                                (土井 正彦)
     *地図の出展 梶山彦太郎・市原実著『属大阪平野発達史』より
コバノミツバツツジに迎えられ
           
                       ( 西緑丘  田村 仁志 )


 今日いつもの様に森の手入れの集合場所である豊島高校前に近づくと参加メンバーの人達は、横断歩道を渡り千里緑地(都草が一面に咲く)広場へと出発していたので、急いでみんなの後を追いかけた。広場の山裾に赤紫の花を付けたコバノミツバツツジが、私達に微笑む様に咲いていた。
 島熊山を守る会の世話人代表の新年度の挨拶から始まり新人参加者4名の自己紹介 ラジオ体操等を行った後、今日の作業場所へと向かった。(今日みんなの楽しみの一つは、恒例の若竹伐りである。始めての若竹伐りに興味津々の人もいてみんな楽しそうである。)林内に入ると 以前からモウソウチクを伐採して大きく開けた斜面に腰丈ぐらいに成長した色々な芽吹きの木々が生い茂ってきており雑然とした景色になってきていた。この島熊山に残していく木々(アカメガシワ、クスノキ、アベマキ、等)の選定を考える時期に来ているように思ったりしながら 柔らかい落葉の積もった大地を踏みしめ作業場所へと楽しみながら歩を進めていった。
 新御堂筋付近の春の日差しが差し込む作業場所に着くと早速 竹の伐採と若竹伐りのグループに分かれ怪我等がないように気をつけながら林内の手入れ等を進めていった。 昼食場所への小道で両側に咲き誇るコバノミツバツツジに迎えられ 且つ恒例の花見をする場所でも私達を待ちかまえるように今を盛りに美しく咲き乱れていた。心安らぐひとときであった。
 午後の作業も午前中と同じ場所でモウソウチクの伐採と下草刈りに手分けして行った。林内整備をした斜面から南側の住宅地を望むと赤紫に咲き誇っていたハナズオウの木が、汗で疲れた体にそよ風と元気を運んでくれた様であった。これからも自然を楽しむ余裕を持ちながらボランティア活動を続けて行きたいと思った。
若竹切りに今年も大活躍
           
                       ( 上野東  熊代直生 )


 5月11日の森の手入れに参加しました。この時期の若竹はさくさく切れるので子供にも手伝えるかと思い、竹のこぎりを持たせました。でも、1年生になった下の子には、のこぎりの扱いなど、結構難しかったようです。今年4年生になる上の子は、乗り乗りでどんどん切っていましたが、若竹も本数が少なくて、ちょっと探すと見つかるという感じでした。いよいよ先が見えてきた、というところでしょうか。ただ、竹を刈ったあとの広葉樹がまだ低木なので、あまり一気に竹を刈りすぎると、林内の環境がなくなってしまいそうです。ぼちぼち進めるのがいいんでしょうね。
 子供たちは竹の切れ端には興味しんしんで、若竹のコップを作って持って帰りました。これで大好きな牛乳を飲んだわけですが・・・その取り合わせは、ちょっとなぁ。若竹だったので、3日ほどでしぼんで色が変わってしまいました。
校内の落ち葉や剪定枝葉などは その場で土にかえそう
           身近な中学校での剪定枝葉の校外移送→焼却に思う
                       浜口 弘幸


[T]
■袋詰めで、校内にうずたかく積まれた剪定枝葉に疑問湧く
島熊山の「森の手入れの日」には、私はいつもA中学校の脇道を通ります。校門を入ったすぐ南側は小高い雑木林になっています。校内の周囲には主に常緑樹が植えられていて、樹冠量もそこそこです。雑木林の南側とプールの北側にはちょっとした畑があります。  昨年9月9日(日)の作業日のことです。校門の内側付近には、落ち葉や剪定枝葉などがぎっしり詰まったごみ袋が数十個うずたかく積み上げられてまれていました。「おかしいぞう。これらのごみ袋はいったいどこへ行くのだろう」。積み上げられた状態からみて、どうも焼却にでも出されるようである。早速、中学校へ電話をしました。「市に要望書を出して業者に引き取ってもらう」という返事でした。
 私は気になり「とよなか市民環境会議アジェンダ21事務局」にも電話を入れました。「とよっぴー」について聞くと「小学校の給食の食べ残しと調理残、それに街路樹の剪定枝を混ぜ合わせて作っている。事情があって校庭の落ち葉や剪定枝葉などは焼却に廻している」ということでした。豊中市環境政策室に問い合わせたところ、同じような答えが返ってきました。
■剪定枝葉の堆肥化方針は、チップ化の壁に阻まれて”粉砕”
 「豊中アジェンダ21の策定体制」・「自然部会」の行動事例の1つに、今まで焼却されていた小中学校の樹木の剪定枝をチップ化して堆肥化することが挙げられています。行動提案34には「落ち葉や剪定枝は燃やさず、堆肥にしよう」ということになっている。  具体的には、校庭の樹木の剪定枝などを粉砕機でチップ状にして、学校で水とその剪定枝等を混ぜ合わせて3か月ほど放置して堆肥化することになっているのです。ここでちょっと気になるのは粉砕機によるチップ化作業です。業者がするにしても粉砕機を各学校へ移動して粉砕するのが大変で、それだけコストがかかることになります。焼却にまわすのはこの辺に事情があるのだろう。この計画には最初から無理があったように思います。

 [U]
■剪定枝葉の移動はCO2の排出 「地産地消」が理想
樹木は光合成によってCO2を吸収し、樹木の幹、枝、根や葉に炭素(C)を貯留していきます。樹木の樹冠部を大きく育ててできるだけ多くの葉をつけるようにしてやると、それだけ光合成は活発になりCO2の吸収が多くなるでしょう。逆に剪定しすぎるとCO2の吸収は小さくなります。剪定枝葉をその場所から運び出すと、炭素が移動することになり搬送エネルギーによる炭酸ガスの発生を伴います。また、移動後焼却すれば、トータルで炭素はほとんど吸収されなくなります。国土交通省の最近の研究によれば、樹木の剪定枝葉は土壌に戻せば土壌がCO2の吸収源となるが、その場から撤去すれば植栽地の土壌はCO2の吸収源から排出源に変わってしまうということが分かってきたという。これからは落葉や剪定枝葉も「地産地消」を考えていくべきでしょう。

 [V]
■校内で発生の落ち葉、剪定枝葉は校内で土に戻すべき
  A中学校に話をもどします。上のような結果を踏まえると、校内の落ち葉や剪定枝葉は雑木林内に放置して自然に腐植させるべきでしょう。あるいは畑に埋めるか、穴を掘って入れて堆肥にするかして処理すべきです。炭素を含む成分は分解すればCO2となって、元の樹木の光合成に消費されます。また窒素(N)成分は樹木に吸収されやすい無機化合物となって肥料になります。りん(P)とカリウム(K)についても同じことがいえます。肥料の3大要素が全部無駄なく植物に吸収されることになります。つまり学校の落ち葉や剪定枝葉は、校内ですべて処理してしまうということです。量的にも多くはないしその気になればできるはずです。こういうことが地球温暖化の防止に貢献するということをじかに学習することができます。
■焼却は最悪の選択 N2Oを増やし、温暖化を促進
 しかし、これらの落ち葉や剪定枝葉を焼却するとどうなるだろう。炭素はもちろんCO2となって大気中に放出されます。炭素は自然に分解しても、焼却してもCO2量は理論的には同じでしょう。問題は窒素成分です。窒素は植物の中ではたんぱく質やDNAなどの構成要素として含まれています。これを焼却すると、NO2とかN2Oなどになって大気中に放出されるでしょう。NO2は酸性雨の原因となるし、またN2Oは温室効果ガスの役割を果たします。
 参考までに、温室効果ガスの大きさを次に示します。
     炭酸ガス   (CO2)=1
     メタン    (CH4)=21
     亜酸化窒素(N2O)=310
 これはCO2の温室効果を1とした場合、CH4はCO2の21倍、N2Oは同じく310倍であることを示しています。特にN2Oの温室効果は極めて大きいことがわかります。従って、落ち葉や剪定枝葉などはそのまま置いておけば樹木の肥料として有効に役立つ窒素が、焼却によって温暖化に寄与してしまうという「マイナス効果」をもたらすことになります。
 2007年11月24日付けの「朝日新聞」によれば、大気中のCO2平均濃度は2006年に381.2ppm(m:million=100万)(0.03812%)に達し観測史上最高値を更新したとありました。CH4は横ばいだが、N2Oも2005年よりも0.53%増え320.1ppb(b:billion=10億)と過去最高を記録したという。この調子だと、CO2にしろN2Oにしろその濃度は年々更新されていくでしょう。

 [W]
■校内の剪定枝葉問題は、環境学習の好材料
 校内処理の工夫で、温室効果ガスの排出を減らし、温暖化防止に貢献しよう
 落ち葉や剪定枝葉などを焼却するのは、とよなか市民環境会議アジェンダ21の行動計画に逆行していることになります。堆肥化できないから、焼却というのではあまりにも短絡したものの考え方ではないだろうか。いま豊中市には公立の小学校41校と中学校18校があります。それぞれの学校の実情に合った取り組みをしていけばよいはずです。炭素や窒素の循環と地球温暖化との関係をみんなで考えながら作業ができます。環境学習は汗をかくことも必要です。
 豊中市の緑被率は、2005年度値は13.1%であり、2010年度目標値17%にははるかに遠い数字です。それも年々減少傾向にあります。このような状況のなかで、落ち葉や剪定枝葉などを焼却するというのは、相対的に緑被率を押し下げているようなものです。  平成19年12月1日発行の『広報とよなか12月号』には、温室効果ガスの排出量を2050年までに1人当り70%削減するという壮大な計画が報告されています。しかし堆肥化できないから焼却とか緑被率の減少傾向とか、およそ計画とは逆行しているような現状では「70%」という数字がむなしく聞こえます。
 A中学校では11月30日に通ったときも、校門の内側には落ち葉や枯れ枝の入ったごみ袋が山と積まれていました。2月に入ってからもまた積まれていました。A中学校だけではない。あちこちの小中学校で、落ち葉を詰め込んだごみ袋が回収を待っているのを見かけた。市内のすべての公立学校が落ち葉や剪定枝葉を焼却せずに、その場所で自然に分解させるか堆肥化するようにすれば、地球温暖化防止にそれだけ貢献することになります。
 豊中市も学校もめんどうくさがらずに是非ともやってほしい。
                            (東豊中町 浜口弘幸)
積もる雪踏みしめて 密生するササの壁に挑む
       幅五m*長さ二五mを刈り 稜線への小径も切り開く
                     易 寿史



手前の白く見えるのは積もった雪。1列に並び
奧に立ちはだかるササの壁を刈り採っていった
 ◆今冬1番の大雪が大阪に降り積もった翌日の10日、打って変わって今日は青空がミヤコグサの小草原上空に拡がる。雪野原には既に誰か入った跡が点々と残っており、中央 東寄りには雪だるまが完成を見ないまま放置されている。真っ白い雪に反射して陽が眩しい。
 今日は参加者10人が小草原西に立ち拡がるササ刈りに挑む。十数年前、小草原出入口そばの小高い丘は草しか生えておらず、稜線へ続く階段さえ3段目まで露出していた。だがいつの間にか、気がついたらササが進出して、あたりをすっかり覆い尽くしていた。今日参加の10人は、力を合わせてこのササ群落の進出最前線をひとまず西端の山裾まで押し返そうというのが目標だった。
 ◆◆高さ2mにも伸びて密生するササの上に昨夜の雪がのしかかっており、その雪を払わねば刈りづらい。うっかりすると頭や背に落ちてくる。1人土田明さんは稜線への小径を切り開くべく、他の9人は2〜3mずつ適度に間隔をあけ、1列に並んで西へ、山裾へと一斉に作業を進めていく。作業を始めてすぐ、長靴の底を通して雪の冷たさが足裏を攻めつける。家で靴下を2枚重ね、さらにカイロを貼ってきたものの、効果なし。溶けた雪が手袋に滲みて、指をもたちまちに冷やす。手先、足先の間隔が弱く鈍くなるのがわかる。用心の良い人は表面をゴムで防水した手袋をつけており、ハタと感心させられる。
 雪が舞い落ちる際、大気中のチリを引き連れてくれたのか、晴れ上がった青空は普段以上に澄み渡り、気持ちがよい。気温も適度に上がって、〈高気圧−交感神経高揚−アドレナリン放出−気力充実〉図式があてはまる典型的日和の中、昼食を挟んで午前中2時間、午後1時間半、計3時間半の作業を意気揚々と完了した。
 この日、ササは@幅5m*総延長25mの帯状に刈り採り、その分西の山側へ押し返したしA稜線への小径は、最も密生していた登り口付近を含めて稜線までの半分以上を切り開くことができた。
 ◆◆◆余談。作業中、1羽のモズ♀がつかず離れず、絶えず動作を見守っていた。ササ刈り時の擾乱により、ササの間や落ち葉の下に潜んでいた虫が追い出されることを期待していたようだった。このモズは1ヶ月後にも同様に姿を見せ、さらにその1週間後には♂と入れ替わって、今度は♂が縄張りから見守るという返し技も見せてくれた。この時期つがいとなって近くで営巣し、♀が抱卵していることも考えられそうだ。
 作業が終わる頃には、あれほど積もっていた雪もほとんどが溶けて、その澄んだ水が草木の萌芽を育むべく、未だ淡い枯れ色の小草原を浅く浸すのみとなっていた。
               (北緑丘 易 寿史)
参加者全員で 東裾に伸びた竹切る
         伐採後の整理にも一工夫こらす
                浜口 弘幸


 2月10日(日)は積雪のなかでのササ刈りであったが、3月9日(日)はぽかぽか陽気で、ちょっと歩くだけでも汗ばむくらいであった。当日はかねてから予定していて延び延びになっていた、西町西側道路ヘンス内の竹の伐採である。ここは平地になっていて、竹はひとかたまりになって密生している。何竹か不明だが、細くて節と節との間が長いすらっーとした竹である。
 今日は12人と、ふだんより参加者は少なかったので、全員でこの竹の伐採に取りかかった。固くて大きいモウソウチクと違って、細くて柔らかいので伐採しやすい。誰かが言い出したわけではないが、伐採する人、玉切りする人、それを積み上げる人というように役割分担ができあがった。見かけは少ないようだったが、いざ作業を進めていくと思ったより多く、皆伐できず何本かが残った。ずいぶんこまめに動きまわったので、おそらくみんなオーバーワークになっていたのではないだろうか。

節間が長く、真っ直ぐに伸びる竹。径が小さく肉 厚が薄く柔らかかったので、切りやすかった。

1本2.5mに玉切りした幹を綺麗に積んで、その後ろに枝打ちした葉を収めた。
 身近でいつでも森の手入れができる島熊山のような雑木林は、そうざらにはないだろう。だが、この山も最近は松くい虫によるのだろうか、松枯れが目立ってきた。豊中市が伐採しているが、追いつかないのが現状である。いっぽう竹林伐採跡地では、多様な植物に混じって松の実生がぐんぐん背丈を伸ばしてきている。
 枯れていく松も将来を案じて、しっかり子孫を残しているのだろう。これといった松枯れを防ぐ手だてがない現状では、私たちはこれらの子孫を大事に育んでいくしか方法はない。
            (東豊中町 浜口弘幸)
くらしかん生活展報告  2007年10月27日(土)
              緑丘 社 ひとみ

  「かしこいくらし大作戦 変わろう変えようあなたの意識」

 今年もくらしかん生活展の開催時期がめぐってきた。いつものように当月の活動は生活展出品のための竹製品作りと工作のためのパーツ作りに追われる。毎年みなさんの発想豊かな力作が出来上る。活動時間だけでは足りなく、それぞれ家に持ち帰っての作業になる。 今年は特に、工作パーツ作りは細かな部品だったため、それぞれに御願いしたが、皆さん快く引き受けてくださってたくさんの部品が揃った。お陰様で予想以上の人に「竹のミニチュアログハウス」作りに参加頂けた。完売だった。

 当日は、クイズの答え合わせ、竹製品頒布、竹工作、ポイントラリーの景品渡し・・・と人手がたくさん必要となる。10時〜16時の開催時間中、振り分けしなければならない。お手伝いもしながら、ポイントラリーなど,楽しむ側にも参加したいと思うが、なかなか実現しない。お昼の休憩もままならないのが現状だ。当日のお手伝いもさることながら、前日の準備と後片付けも重要な仕事だ。当会の担当は3階イベントホールを中心に同階のイス、机の移動を任される。同じフロア―を使ういくつかのグループと一緒に共同作業となる。くらしかん登録グループ、今年は13グループだが、中でも、男性会員も多く、活発に動いてくださる方が当会には多い。とても頼もしい存在だ。


写真 土田泰子
 こうして会員の皆さんに支えられて、無事生活展も終了した。いろんな課題も上がって、検討の必要があるが、まずは、みなさんに感謝して達成感をわかちあいたい。ありがとうございます。
       (緑丘  社 ひとみ)
  竹製品頒布売上      7,500円
  竹工作(50円×19人) =  950円
  合計           8,450円
第148回とよなか自然ウォッチング          2007年11月11日(日)
雑木林の手入れに精だし 充実した1日を過ごす      井谷弘治


 11月11日(日)午前10時、ラジオ体操の後、作業開始前のミーティング。場所はグリーンヒル上の広場。本日の作業は、グリーンヒルから尾根道一帯のササ刈りを1班から4班に分かれて実施。また、市公園みどり推進課より借りた動力草刈機でグリーンヒル上の広場の草を刈る。
 昼の休憩もグリーンヒル上の広場で行う。昼食時土田さんより、アケビの鞘でお肉を包んだ手料理をいただく。鳥が実を食べた後の鞘でできるとのこと。また田中さんよりカキをたくさんいただく。午後の作業を始めるころ、突然のにわか雨。それでも作業続行。  青空の戻った午後3時作業終了。尾根道はササがきれいに刈られ、見違えるほど歩きやすくなった。広場の草もきれいに刈られ、広くなった感じ。山火事跡の東側斜面のササも少し刈ったが、1人2人ではぜんぜん目立たず。
 今日も充実した一日でした。皆様お疲れ様でした。
            (井谷 弘治)
島熊山の里山ボランティアに参加して
  〜影山 威夫〜
 ■
やがて来る「定年後」を張りのあるものにしたい、まだ体の動く間に仕事を通じて得た経験を役に立てたい、という思いが「付き合い下手」の壁をなんとか突き崩し、今年「ボランティア元年」を迎えることが出来ました。
 重機やチェーンソーを使っての作業や側溝の清掃といった公園緑地の維持補修が、月曜日から金曜日の私の仕事なんです。だから里山ボランティア作業の難度は(A:大変な作業だろう、B:少し大変だろう、C:それほどでもないだろう)のCというのが参加前の私の認識でしたし、実際参加してやってみても、戸惑うこともなく実行できる内容でした。
 しかし、鎌を使っての笹刈の大変さは予想以上でした。

密生した頑固な笹を相手に大汗流す
 ■■
 「笹刈ぐらい」と思って取り掛かりました。脇目もふらずせっせと刈りました。腕がだるい。刃こぼれして鎌が切れない。切れないので鎌を引く手に余計力が入る。腕がどんどんだるくなる。ついには鎌を笹に叩き付けて切る。笹が下から切れず残る。
「なんちゅう出来栄えや」「アー、あさっては腕がいたいやろうなあー」
スカッとしないお手伝いの日となった。
 ■■■
でも、家に帰れば、あれだけ研いだ鎌をわずか2時間であそこまで切れなくしてしまう笹を、次はどんな道具を使って攻略してやろうか、と頭を働かせている「作業人間」の自分を発見。
 無為徒食に終わる週末より大汗をかく週末のほうが私には向いているようです。
 更にボランティア活動をーーー
         (蛍池中町 影山威夫)
第147回 とよなか自然ウォッチング          2007年10月14日

 くらしかん「生活展」を控え、当会のコーナーで頒布する竹製品の製作と、工作コーナーの部品作りを中心に作業が行われた。午前中はそのための竹を間伐し、材料がそろった人から早速製作に取りかかった。
 今年の竹製品は靴べら、ハンガーかけ、竹こっぽり、花器、動く置物、色紙立てが中心だ。また、生活展参加者の工作コーナーは、岸田興次さん考案の「竹のログハウス」で、短く細い竹の枝がたくさん必要なので、そのための部品作りにも力が入った。森の木陰であれこれ歓談しながら15時半までしっかり働いた。この日のうちにできなかった分は宿題となり、各自持ち帰った。
                     (事務局)
島熊山の里山ボランティアに参加して
  〜石井陽子 渡部浩子〜
◆◇◇◇

 「島熊山」・・・豊中で幼い頃から育った私達は島熊山の名前は知っていましたが、この島熊山で保全活動をしていることは全く知りませんでした。そればかりか、実際はどの辺りまでがそうなのかも知りませんでした。しかし、活動している場所が家から近いし、里山の重要性が見直されている今日、里山保全にちょっとばかり興味があったので、2人で行ってみようかということになりました。

◆◆◇◇
 参加した初日は、色々な植物の名前を教えて頂きながら、雑木林内を散策しました。以前より雑木林の前は通っていましたが、中に入れるとは思いもよりませんでした。
 外側の道路から見ている限りでは鬱蒼として暗い感じがしていたのですが、実際に中を歩いてみると意外に明るく、色々な植物が生えており、雑木林というのは、色々な草木の集合なんだなと改めて思いました。
 とにかく、島熊山は思ったより広い山であり、また自分の近所にこんな場所があったんだと驚きました。
 散策後に、カマやノコギリの使い方など教わり、竹の伐採をしました。使ったことがないので、もちろんうまく使えません。皆さんのように軽やかに切れあじ良くとはいかず、丁寧に使い方を教えて頂きながら手伝ってもらい、何とか竹を切ることができました。
 2本ほどしか切っていないのに、あっという間に時間が過ぎてしまいました。

◆◆◆◇
 竹や草を伐採するだけの活動かと思っていましたが、バザーに出品するために竹を利用した手作り小物を作るという活動もされていました。残念ながら私達は何一つ作ることが出来ませんでした。
 せっかく切った竹をもっと有効利用できる方法はないかと考えておりますが、なかなか思いつきません。

◆◆◆◆
 現在、日本各地の里山は荒れ放題になっています。また温暖化や酸性雨などが原因で、かつてないほど自然環境が悪化しており、島熊山の松も茶色く枯れたようになっているのも目に付きます。
 島熊山を守るといっても、ただ単に山の"自然"だけを守るのではなく、住宅街の中に残る山として、宅地側の木は伐採しないといった、人間への配慮もしないといけないところが難しいと思います。しかし、何もしなければ、この島熊山の雑木林もいずれはなくなってしまうかも知れません。
 そうならないように、少しでも役にたちたいと私達は思います。
             (石井陽子 渡部浩子)
蜂刺症 受難の記     岸田 省吾

 ●はじめに
 蜂刺症とは「はちししょう」と読み医学上の症状名です。一般的には「蜂さされ」です。今年の秋は例年になく蜂刺症の来院患者が多いとのことでした。とゆうのは私がその患者になったからです。今年は3回も蜂にさされています。そして3回目が今から紹介するスズメバチの被害でした。7ヶ所も刺されたのでまさしく「受難の記」なのです。蜂刺症とかスズメバチでインターネット等で調べてみると多くの資料をみることができます。しかし、その多くは医療する側とか昆虫学の立場からの紹介が多いように思います。そこで、被害者の立場からの観点でその実際を紹介することにしました。
 ●経過
 アシナガバチには2回手首を刺されています。すべて樹木の茂みに手を入れた瞬間です。巣の間近に手を入れたからです。巣の存在にはまったく気が付きませんでした。スズメバチの場合も同様でした。樹高6mぐらいのアラカシです。黒々と繁った樹冠に営巣していました。といってもその巣を見たわけではありません。後日同僚から聞いたものです。知っておれば当然接近することはありませんから…。ラグビーボール大だったとのこと。場所は千里東町の団地。剪定作業での出来事です。蜂は見張り役がいて巣の周囲を偵察飛行をしていることが多く、それに気がつけば良いのですがまったくわかりませんでした。茂みに手を入れた瞬間に指の付け根を刺され、あっという間に集団で襲撃されたのです。安全ベルトをはずし脚立を降りる時間に次々に刺されて顔を含めて7ヶ所の惨事でした。手を入れるまで近くで作業しているにも関わらずその気配はありません。巣の間近に接近されるまで巣中で様子を伺っていたのでしょう。時は10/12午前11時頃でした。
 ●症状
 なんといっても痛みです。上半身に激痛が充満します。刺された部位は月のクレーターのようになっています。重症の場合は15分ぐらいまでに呼吸困難やめまい等が起こるらしいのですが、私の場合は痛みだけ。あまりの激痛のため、目を閉じて体を縮めうずくまります。病院(皮膚科)へ連れていってもらいました。
 ●病院にて
 その旨を告げると、救急扱いをしてくれました。注射と点滴2本、刺し傷には軟膏塗布。痛みを我慢できないのであれば痛み止め注射をしてあげるとのこと。これは辞退しましたが、痛みは夜まで続きました。
 ●腫れ
 翌日になると、手の平が子供用グローブ、顔はボクシング選手のように腫れあがり目が見えない状態になりました。気持ちも落ち込んでいます。まるで急性うつ病です。一日中横臥です。
 ●その後
 翌々日には目が見えるようになったので早々に仕事復帰です。しかし剪定鋏は使いにくい、顔は「お岩さん」。残している剪定作業を「あだ討ち」と称して終了。樹下には翌日の専門業者による駆除作業によるスズメバチの残骸が残されていたのでした。UR都市機構(旧住宅公団)の団地ですので緊急駆除作業の手配をしたようです。腫れは3日目ぐらいから急速に引いて行きました。しかし、傷口は痛くそして痒くなっていき、今でもタコのように硬く盛り上がっています。
 ●おわりに
 見張り役の蜂に気がつきさえすれば注意深く行動をして巣に近づかなければ被害はない、といって良いでしょう。しかし、運悪く刺された場合はアシナガバチであっても直ちに皮膚科に行くことをお薦めします。ハチ毒対策の注射や点滴、そして軟膏(処方箋なしでは買えない)は効果があると思われるからです。なお、蜂の種類は樹上に営巣することなどから、コガタスズメバチだと推定されます。

    (2007/11/15記)           (栗ヶ丘 岸田省吾)
3回目   漁業と海洋環境    東豊中 浜口 弘幸

 「漁業と環境」シリーズは今回が最後となりました。今度は海洋環境の汚染を中心に話を進めていきたいと思います。

◆1◆ 大阪湾沿岸部の埋め立て
 1955年以降の高度経済成長に伴い、重化学工業を中心とした産業の発達を推進するために、臨海部の埋め立てが進みました。その中心は東京湾、伊勢湾および大阪湾などのような大都市近郊の臨海部に接した海面でした。大阪湾沿岸部では、1960年代に入って工業用地の造成や港湾整備のために、沿岸部がどんどん埋め立てられてきたのです。  このような工業優先の経済政策は、大阪湾を生産基盤とする漁業に大きな影響を与えました。大阪湾は地形の変化、水質などの化学的変化、藻場の消滅や赤潮の発生等の生物学的変化などをとげてきました。埋め立ての地形的変化をみてみると、埋め立ての多くは水深15m以下の浅海域です。浅海域は水生生物にとっては重要な生活空間であり、産卵場所でもあるわけです。
 ところがこの結果、特に大阪府沿岸域ではさかなや貝類にとって大切な藻場や干潟がほとんど消失したのです。図1でもおわかりのように、1977年ごろから貝類の生産はほとんどない状態になりました。

【図2】 大阪府の貝類生産の推移
 大阪湾の水深15m以下の浅海海域は1932年に約500kuあったものが、1986年には約350kuと、30%の減少となりました。また人工海岸は1932年の116kmから1986年には465kmと、約4倍に増えました。

◆2◆ 大阪湾への し尿投棄
 戦後1955年以降になると、鉄鋼や化学、機械などの重化学工業が盛んになり、産業構造はずいぶん高度化してきました。沿岸都市部に工業が発達してくると、どうしても人口も都市部に集中してきます。ここで問題になってくるのは生活排水です。戦前は肥料として農地に還元されていたし尿が、戦後は化学肥料が普及してきたためにその処置に困ってしまいました。下水処理施設の整備の遅れから、処理しきれない過剰のし尿は大阪湾に投棄されました。大阪湾沿岸部の都市から、大阪湾距岸10km沖合いに投棄する総し尿量は、1955年の342万kl、1956年の393万kl、1957年の440万klと年々増加していきました。
 その後は都市下水処理施設の整備も進み、大阪湾への投棄も次第に減少していきました。1969年になると瀬戸内海全体でのし尿総投棄量は105万トン/年にまで下がり、それでも大阪湾へは28万5,700トンと全体の27.2%に及びました。そのうち神戸市が80%ほどを占めていました。
 し尿には窒素(N)、りん(P)などの栄養塩が含まれ、BODは13,000mg/Lと極めて高く、海洋の富栄養化をまねき赤潮の原因になります。大阪湾のさかなにとって、受難の日々が長い間続きました。1973年4月から、瀬戸内海へのし尿投棄は禁止されています。

【図2】 大阪湾の海域区分
【図3】 大阪湾におけるCODの推移
 図2は大阪湾の海域区分を、図3は1972年以後2001年まで30年間の大阪湾のCODを表しています。C海域は全て適合ですが、A海域は全て不適合になっています。窒素(N)もりん(P)も同じことがいえます。大阪湾の水質はなかなか改善されないのが実状です。最近の研究でも、大阪湾は陸域起源(生活排水など)からの割合が高いことが実証されています。私たちの食生活を一から考えなおす時期にきているのかもしれません。

◆3◆ 海域汚染と漁
 1960年代の高度経済成長期には、埋め立てや工場立地のためにいろいろな漁業被害が出ました。それではここで、むかし大阪府で起こった公害による漁業被害の事例についてお話しましょう。
 1つは「油臭魚の問題」です。1970から1971年にかけて堺・泉北臨海工業地帯周辺の海域で油の流出事故が相次ぎました。原因は、石油タンクの操作ミスや装置の破損および船舶等からの不法投棄などでした。このため周辺の魚介類に油くさいものや奇形魚が混ざるようになり、買いたたかれたり返品が相次ぎました。
 大阪府の漁民は大阪府庁に工場排水を持ち込んで、補償を要求したがらちがあきませんでした。大阪府は漁民の代表者たちと話し合いをもち、当面の生活資金を緊急融資することをあっ旋し、臨海進出企業から協力金拠出などの回答を得て「油臭魚問題」は落着しました。
 2つめは「魚介類のPCB問題」です。1972年に、水産庁は全国的に魚介類について「PCB汚染調査」を実施しました。大阪府はコノシロやアジなど11種の160検体と泥質40検体を分析しました。そのうちタチウオ20検体中1検体だけが基準値の3.0ppmをわずかに越えた4ppmでした。その外はすべて規制値以下で、漁獲規制するほどのことでもありませんでした。
 ところが、1973年6月4日に政府は調査結果を発表したのです。大阪府下では「タチウオは漁獲規制の必要はない」にもかかわらず、中央市場から締め出され、関係のないコノシロまでも締め出されてしまいました。風評が風評を呼びほとんど大阪府全域で魚価が暴落しました。大阪府や漁民は、消費者の過剰な不安を除去のために努力し、この「PCBショック」から徐々に需要も回復してきて立ち直りました。

◆4◆ おわりに
 3回にわたって漁業と環境についてお話してきました。大阪湾の漁業資源は年々減少傾向にあります。この原因はごみや生活排水などによる水質悪化もその一因と考えられています。一昔前までは、大阪湾の水質悪化の80%は工場排水でしたが、現在は生活排水が80%です。
 農林水産省の「2004年度食品ロス統計調査」によると、食堂やレストラン、家庭での食べ残しは国内全体で11兆円に及ぶといいます。わが国の全漁獲金額は年間2兆円余りです。食糧自給率が40%以下というわが国がこんなことでよいのでしょうか。食べ残しはすべて最終的には空気を汚し海を汚すことになるのです。私たち人間は、地球上に誕生して以来、生き物の「生命」を犠牲にして生きながらえてきました。これからもずーっと生き物の生命の犠牲なしには、人間は生きつづけることはできないのです。これらの「生き物」には常に感謝しなければなりません。「感謝」とは、食べ物を粗末にしないで食べきることです。
 いまの私たちは飽満飽食の時代に生きています。見かけは何の不自由なしに食べ物を手にすることができています。それ環境だの、やれ生態系だのと、やいのやいのいう割には食べ物に対する感謝の気持ちが欠けているように思えてなりません。いまのように食糧資源を無駄にしている限り、いずれしっぺ返しがくるでしょう。  最近、「海の環境や生態系を乱さないように配慮した漁場で捕獲されています」こんな表示をした「海のエコラベル制度」がお目見えしたそうです。少々値が張っても、そのさかなの前に長蛇の列ができることを期待したいものです。「持続可能な漁業」を消費者の立場から支援していくことも大切だと思います。
  ※《BOD》生物化学的酸素要求量 《COD》化学的酸素要求量


[編集部より]
 3回に渡り浜口さんに連載いただいた「漁業と環境」も、今回で終了です。昔からなじみの深かったイカナゴやハタハタが、漁獲者の乱獲への反省と計画的漁労への取り組みによって、壊滅の危機から回復していった様が良く解りました。漁業を取り巻く危機は捕り手だけにあるのではありません。大阪湾の水質は30年前と大差なく、これが埋め立てによる浅瀬の激減やゴミの流入と相まって、漁獲高を減少させる要因になっているとの指摘でした。今では貴重になった近海物、地物の漁獲高を高い水準にまで引き上げていくためには、ヒトが努力して魚の棲みやすい環境を整えることが必要で、そのために生活排水を浄化し、海へと流れ行く河川水を綺麗にするのは不可欠の課題となっています。浜口さんから1回目に提案・御指摘いただいた「海洋環境と森林との密接なつながり」に則せば、森林が保水と涵養の役割を果たせば、森林の滋養を十分に吸収した水が河川へ集まり、海へと流れ、その浅瀬で藻やプランクトンを育て、それが魚の繁栄につながる――という循環構造の回復が急がれねばならないと思われます。「現在は沿岸部の〈魚つき林〉だけでなく、河川上流の森林も広く〈広域漁業林〉として、沿岸漁業にとって重要視されるようになりました。島熊山の雑木林は、単なる地域の自然というだけではありません。広く海域環境の保全にも重要な役割を果たしているのだと思えば、森の手入れにも熱が入るというものです」との浜口さんの生きた声が、ヤブ蚊多くして酷暑の森にひときわ力強く響いているような気になります。
私の夏休み  上信越・奥羽 自然と温泉の旅   上野西 土井 正彦

 この夏、高速道路を避け旧街道を辿りながら、自然と歴史遺産を求め旅をしました。また温泉にも浸ってきましたが、その中で印象に残ったところをいくつかご紹介します。
 ■飛騨せせらぎ街道は、郡上八幡から明方を経て清見・高山に至る道ですが、自然豊かなすばらしい峠みちです。この日天候はあいにくの小雨でしたが、しっとりとした緑の中を流れる渓流に沿って走る道は真夏の清涼剤でした。晴れた日の木漏れ日もきっと良いと思います。
 ■信州佐久の御牧ヶ原は千曲川の支流に周囲を囲まれた低い台地状の高原です。すぐ北に浅間山、晴れた日には遠く西に槍ヶ岳を望むことができます。「あぐりの湯」から眼前に見える浅間山、絶景を見ながらの入浴は格別でした。
 ■上州高崎から、江戸時代に京都の朝廷が毎年日光東照宮へ参詣するために通った旧日光例幣使街道があります。利根川の支流を御成り橋で渡り、鹿沼を過ぎると見事な杉並木が続く街道が続いていました。今市で会津西街道へ分岐して、本陣・脇本陣・旅籠の残る大内宿を通り、峠を越えると会津若松です。尾瀬と那須高原の間に位置するこの道も鬼怒川温泉など温泉と自然豊かな道でした。
 ■奥州盛岡の岩手山の麓、岩手高原から八幡平、田沢湖周辺は日本で最大級の温泉銀座です。後生掛温泉、玉川温泉、乳頭温泉郷などはまさしく秘湯です。クマと混浴できそうなほどの自然の残る温泉は少なくなってきていますが。
 ■妙高・黒姫高原・野尻湖のあたりを、越前から越後・信濃へ通じる旧北国街道が通っていました。その一部、古間から落影を通り牟礼に出る小玉古道は、今はひとも車も通らない道です(当然舗装もされてません)。小林一茶はこのあたりで生まれ、江戸へ出ました(藤沢周平の「一茶」の冒頭)が、晩年故郷へ戻ります。きっとこの道を歩いて江戸と往復をしたのでしょう。
会津西街道の大内宿→

  ↑日光街道の杉

  一本桜と岩手山↑
私の夏休み   井谷 弘治

 今夏のうえの歩こう会の特別例会は、初めての1泊旅行となりました。7月27日(金)午前7時堀田会館前を出発し、名神・中央自動車道を進み、山梨県韮崎ICで降り、昇仙峡へ寄った後、石和温泉で1泊しました。翌朝8時にホテルを出発。9時に西沢渓谷入り口の駐車場に着き、各自弁当とお茶を受け取った後、渓谷沿いのコースを約4時間かけて一巡りしました。渓谷沿いの道は岩場の連続で、上り下りも多かったものの、よく整備されていて歩きやすいコースでした。流れには所々に大小の滝があり、展望のよいスポットもいくつかありました。

    リョウブの花
 西沢渓谷は、秩父多摩甲斐国立公園にあり、笛吹川の上流に位置し、関西の森林とは雰囲気が異なっているようでしたが、特に高山植物もなく、わずかにカラマツソウの仲間と思われる花が目に付きました。
 午後1時30分西沢渓谷駐車場発、途中道の駅で買い物を済ませ、一路大阪へ。諏訪湖の見えるSAで小休止。車窓から長良川の花火を眺め、午後8時堀田公園着。
 ケガも事故もなく、道路の渋滞もなく、無事帰れたのは何よりでした。
          (川西市 井谷弘治)
石原忠一先生をお迎えして
  島熊山自然観察会 参加者感想 二〇〇七年六月二日(土) 十時〜十二時

 石原忠一先生プロフィール
 豊中市中学校の教諭を経て
 大阪府府会義員二期。
 現在、社団法人子ども情報研究センター顧問
 NPO「自然と緑」自然大学理事長

 お声かけした会員の方、新千里西町の自治会の方など総勢二十人余りが豊島高校前に集合。特養施設の階段を上り箕面、六甲の山並みを眺めながら観察会は始まりました。
 観察会終了後、軽食をとりながら先生をまじえて座談会、参加者から感想を頂きました。

 ○木洩れ日のもと、樹下の十七賢人になつた様な体験でした。この様なゆったりした時間が身休を通して,昔の記憶を呼び戻してくれ、時がすぎるのが惜しいと思いました。
 石原先生には様々な資料を準備頂き、折りにふれ教えて下さいました。興味を知織にせねばともう一度考えさせて頂きありがとうございました。
 ○今日は石原先生のお話を楽しみにしていました。前回のトンボ池でも感激した優しい話振りで地球規模な考え方。息子、孫たちにも伝えたい内容です。島熊山の手入れに誇りが持てます。心地よいことは自然を守ること人類を守ることと感じました。沈黙の春を帰って読みます。
 ○島熊山の一木一草にこれから先もっと愛情を持って接しなければと深く感じました。
 ○箕面の山、トンネル周辺を見ておきたいです。確認しておきたいと思います。自然に生かされている事を改めて感じました。森の大切な事、まず家族や子、孫に伝える義務を感じました。
 ○「自然はヒトの向こう側にあるのではない」この二言は感動的だつた。ヒトは自然と対立しそれを征服するものである。とのこれまでの自然観を問い直し自然に抱かれたその一部であるとの見方を打ち出したものだ。ヒトと自然との距離を縮めるこの考え方への転換をいかに拡大していくか。森に入り、大地と触れ、落ち葉を掘って考える機会を多くつくっていきたい。
 ○アメリカのゴアさんの作られた映画「不都合な真実」を見ましたが、映画より先生のお話の方がよく解りました。地球環境の目で自然を見つめていかなければと思いました。  ○地球規模で考える自然の話が島熊山の人間としては大変参考になりました。自然ダ〜イスキです。また来て頂けると良いですね。山の手入れの日の午後などいかがですか?

 ○今後のお顔い
 @島熊山の自然
 A自然の一部としての島熊山
 住宅地保全生態学の視点で
 ・@とAの相関関係
 ・Aに対する@のメリット
 など教えて下されば幸いです。
 〇二期一会ですから‥・」
        と石原先生。

  
  写真撮影  上田峯子
 観察会に参加した私たちとのことでもあり、木々や草花、小さな昆虫、見上げると晴れ渡った空に浮かぶ数々の雲、向こうには箕面から六甲の山並み・・・目に映るすべてのものと、目に見えない酸素や二酸化炭素など大気やその他諸々の私たちを取り巻くものを意識することでもある‥・と解釈しました。


2回目   漁業資源の管理    (浜口 弘幸)
 今回は漁業資源の管理はどのようにされているのか、ほかの事例を挙げて話を進めていきたいと思います。

◆1◆ お金とさかなの増え方の違い
 漁業資源の管理について話をする前に、まずお金の増え方とさかなの増え方の違いを理解していただきたいと思います。
 それではまずお金の増え方を説明します。これはみなさんが最も関心のあることですので詳しく説明する必要はないと思いますが、ひととおり解説しましょう。
 ちょっと数学的になりますが、いま元金=a、金利=rとしてn年間複利で定期預金したときの元利合計金額=Anとすると、
       An=a×(1+r)n
で表すことができます。お金は雪だるま式にどんどん増えつづけます。お金が増えすぎたので「金利」が「ゼロ」になるということはありません。ひとむかし前のように金利が8%ですと、9年ほどで元利合計は元金の2倍になる計算になります。金利が1%ですと、2倍になるのには70年ほどと気の遠くなるような年数になるでしょう。
 それでは、漁業資源はいったいどんな増え方をするのでしょうか。第1回目で述べたように、漁業資源は「再生可能資源」です。親魚は卵や子を産んで自らの個体数を再生産していきます。1尾のさかなは、ならして1,000,000個の卵を生み、そのうち成魚になるのはせいぜい2尾だそうです。この自然に増加する資源量を「自然増加量」あるいは「余剰生産量」といいます。ここで問題になるのは「資源量と自然増加量との関係」ということになります。
 さかなは、お金と違って無制限に増えつづけることができないのです。餌の量とか捕食者(例えばイワシとカツオの関係ではカツオが捕食者になります)、あるいは生息海域の大きさなどの環境条件が大きく左右するからです。このためこれ以上資源量が増えることができない「限界値」というものがあります。これを「環境収容量」といっています。さかなはこの環境収容量いっぱいまでは増えつづけるが、それ以上は増えることはできませんので、自然増加量もゼロになります。
 このグラフは「ロジステック・モデル」といわれています。左図は一定資源量までは自然増加量は増えていきますが、最高点(横軸のB、縦軸のb)を過ぎると自然増加量はだんだん減少していくことを表しています。そして自然増加量は、環境収容量まで増えてゼロになります。
 地球の表面積の70%は海洋なのに、それぞれのさかなが生息できる海域は、広いようで狭いものです。

◆2◆ ハタハタにみる資源枯渇からの資源回復
 秋田県では、ハタハタ漁業が盛んな地域です。ハタハタは沖合いの底びき網と沿岸での小型定置網、そして刺し網によって漁獲されています。1970年代前半ごろまでは、年間1万トンを超える漁獲量がありました。ところが、1984年には乱獲がたたって、わずか71トンと約0.7%にまで落ちこんでしまいました。これはまったくの資源枯渇状態です。「このままではハタハタは絶滅する」「何かするなら今年が最後」という危機意識が、関係漁業者の間に広がりました。
 このハタハタの減少の原因は、産卵場所である藻場の減少という環境要因もあるが、資源量の80%も漁獲していたことも大きな要因とされています。これを図1で説明しましょう。例えば一定の親魚資源量・Bから生まれる自然増加量・bだけを漁獲していれば、資源量は増えも減りもしないで一定に資源量が保たれるわけです。資源量の80%漁獲というのは、残り20%・Aで自然増加量・aをまかなうことになります。これで資源が増えるわけはありません。年々減少していって当然です。お金でいえばいままで利子だけで生活していた人が、生活がはでになり利子だけでは足らなくなって、ついに「元金」にまで手をつけたことになります。
 それで、秋田県は1992年9月1日から1995年9月30日までの3年間を全面禁漁にしました。この間漁業者は県から融資を受け、最低保証的な生活を強いられました。漁業者は、海藻をロープに縛り付けてハタハタの産卵場所を設置するなどの地道な活動に取り組みました。こういうことも効果をあげて、資源は回復してきたので、1995年10月1日にハタハタ解禁にこぎつけました。現在は、漁期を制限したり、漁船数を制限したり、年間の漁獲量を制限(これを「TAC」といいます)したりして資源管理をしています。
 秋田県のハタハタ漁業者は、二度と同じ轍を踏むことはないでしょう。「乱獲はもうこりごりだ」が、骨の髄まで染み込んでいるからです。

◆3◆ プール制によるサクラエビの資源管理
 それでは次にサクラエビの資源管理についてお話します。
 サクラエビの漁場は駿河湾奥の富士川河口を中心とした湾奥一帯と焼津沖などの湾西部ですが、漁場は非常に狭く限定されています。そこに全漁船が集中すると、激しい漁獲競争が起り漁船間の争いや乱獲がおこるわけです。
 昭和40年ごろになって、資源の枯渇を恐れた漁協幹部が際限ない漁獲競争に歯止めをかけ、なんとか資源を持続的利用できる方策はないものかと考えるようになりました。そこで考え出されたのが「プール制」です。これは全漁船が一緒に漁に出て、協定を守って漁業調整を行い、水揚げ代金を全船で平等に分配するというものです。昭和41年から共同操業に踏み切り、試行錯誤を繰り返して、昭和43年から水揚げすべてをプールして利益を平等に分け合う計算方式を確立しました。1990年には由比と蒲原町、大井川の3地区で60統120隻の漁船が静岡県から許可を得て年間3千トン、約32億円を水揚げたといいます。        その後も静岡県立水産試験場が中心になって資源調査を行い、望ましい漁獲量を推定して、漁業者はそれに合わせて年間の漁獲調整をしているのです。こうしてサクラエビの資源を管理して持続的な漁業を営んでいます。こうすることで漁業者全員の所得の平均化と資源管理を両立させ、漁業者間の連帯感も強まりました。

◆4◆ 共同操業によるイカナゴ漁
 最後に、大阪湾のイカナゴの「共同操業」についてお話しましょう。ここでは深日4統と淡輪3統の機船船びき網漁業者7統で「共同操業」をしています。これはサクラエビのように資源管理が目的ではなくて、仲買い人の需要を満たすためのものです。これはどういうことかといいますと、兵庫県の北部市場では新鮮なイカナゴは「くぎ煮」として需要が高く、有利な価格で取引されていました。大阪府のイカナゴ漁業者も価格的に有利な北部市場へ水揚げしていましたが、仲買い人から需要を満たす一定量の供給を要求されるようになりました。従来のように1統(1統は、網船2隻+運搬船1隻から成る)での操業では、この要求にこたえることができません。まとまった数量を午前中の決められた時間に毎日供給する必要があり、それに対応するには1統では対応が困難です。それで1996年から共同操業を開始したのです。水揚げ金額は前に述べたサクラエビと同じように各船均等に分配されています。

◆5◆ まとめ
 第1回目より少し話のレベルが上がりましたが理解していただけたでしょうか。今回は、お金とさかなの増え方の違い、ハタハタ資源の枯渇からのみごとな回復、サクラエビの資源管理、そしてイカナゴ漁の共同操業による迅速な市場への対応など、さまざまな取り組みを紹介しました。

〔次回予告〕 9月号では《漁業と環境》シリーズの最終 回「漁業と海洋環境」を掲載します)。
〔お詫びと訂正〕 《漁業と環境》第1回目「大阪湾の漁 業資源と環境」中、p7の本文下から8行目の「6倍」は「5倍」の誤りでした。お詫びし、訂正いたします。
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